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滋賀県協同組合講演会(3)

滋賀の生協 No.166(2014.3.31)
滋賀県協同組合講演会
次世代につなぐ協同組合
~七代目が語る二宮金次郎が遺したもの~

2014年3月1日(土)14:00~16:00 滋賀県農業教育情報センター研修室
主催 国際協同組合年(IYC)記念滋賀県協同組合協議会

講師 中桐 万里子さん
(親子をつなぐ学びのスペース「リレイト」代表、京都大学博士)

   ワクワクドキドキ

  「知る」ことで生まれる、私たちを楽にしてくれる二つの目のものは「エネルギー」です。飛び込んだ「水車」が、「川」からエネルギーをもらって回転をするように、私たちも飛び込むこと、知ることでエネルギーを得て「明日も頑張ろう」と思うようになるのではないかと言うのです。

 「一所懸命やりましょう」「精一杯努力してください」「力を尽くしてください」そんなふうに私たちはいつだって「エネルギーを使え、使え」とばかり言われるわけです。じゃあそのエネルギーをどうやって溜めればいいのか。どうやって生み出せばいいのか。使ってばかりでは空っぽになるではないかと思ったりもするわけです。

 そんなとき、金次郎は「エネルギーは、知ればどんどん生まれる」と言うのです。「知ること」「目を開けてよく見ること」必ずそこからエネルギーが、明日への希望が生まれてくると。

 じゃあ、エネルギーとは何なのか。私はそれを「ワクワク感」や「ドキドキ感」と呼んでいます。ワクワク、ドキドキする思い「幸せだなあ」「うれしいなあ」「楽しいなあ」「感動だなあ」「誇らしいなあ」「勇気をもらったなあ」、そんなふうにワクワク、ドキドキする思いが自分の中にあったら、「よし、何とか明日も頑張ろう」と思えるのではないかと思うのです。ワクワク感、ドキドキ感、それが「知る」ことで生まれると金次郎は言うのです。

   プロセスを知る

 具体的にそのことを語るとき、金次郎が好きで使っていた例え話があります。

 みなさん、目の前にある大きな一本の木を想像してみてください。そしてその木をよく見てみてください。何が見えてきますか。人々は「樹齢が何年ぐらいかな」「この木の品種は何かな」「肌ざわりはどうだ」「ぬくもりはどうだ」「何メートルぐらいありそうだ」と、いろいろなことを言いました。ところが金次郎はニヤニヤとしているのです。そして言います。「いやいや、今あなたたちがしたのは、よく見たのではなくて、ただ見ただけだ。ただ見るということと、よく見るということは全然違うのだ」と言うのです。ただ見ていたら、何にも「ヒント」も、「エネルギー」も生まれない。つまらない、ものの見方だというのです。

 「ただ見る」と「よく見る」は全然違う。「ただ見る」それは肉眼で見るということ。「よく見る」それは心眼で見るということだと言うのです。本当は誰もが知っているのに、ただ忘れかけているだけのシンプルな事実、「この大きな木が初めからこの姿だったわけではない」という事実を見るということです。どんな大木も始まりは頼りないほど小さな苗でしかないのだ。その小さな苗にたくさんの人たちが、手間暇を掛けたり、労働を掛けたり、思いを注いだり、そしてたくさんの月日が流れて、この姿になります。人間だけではなく、多くの自然達もパワーを注いだでしょう。多くのものたちが協力をして、この小さな苗は今この姿になっていると言うのです。

 つまり、「よく見る」。それはプロセスを知るということ、ドラマを知るということでした。金次郎は、「あらゆるものはプロセスやドラマを持っている」と考えていたのです。

 茶碗や、鍬、鎌だって、一枚の田んぼだって、必ずドラマを持っている。どんなに憎らしい相手だって、どんなに困った行動だって、必ずそれらにはわけがある。プロセスがあり、ドラマがある。そんなことに目を向けることで、私たちは「ヒント」を、そして「エネルギー」を手に入れていく。ついつい私たちは表面上「ただ見る」という世界でくらしてしまいます。そうではなくて、今は目に見えなくなったプロセスを通して見るから、私たちにはワクワク感、ドキドキ感が生まれ、「気付き」が生まれます。この社会が大きなチームプレイで出来ているということ。苦労をしたり、頑張ったりしているのは、決して自分だけではないということ。そんなことに気付くとき、私たちも「自分も頑張ろう」というパワーをもらわないだろうかと言うのです。

 「プロジェクトX」という番組を皮切りとして、ものづくりの現場に密着するとか、プロの裏側に潜入取材をするとか、そんな番組が大流行りだったりします。ただのペットボトルとしか見えないものでも、よく見ればそこには本当にたくさんの数々のドラマがある。そんなふうに思うとき、私たちは勇気や知恵をもらい、多くの感動があるのではないかということです。

 私の妹は三年間スペインで生活していました。スペインから帰って来たときに、「スペイン人と日本人の違いを一番感じたのってどんなときだった?」と聞いたのです。すると彼女は「スペインの人は、なぜ日本人が桜を好きなのか、最後までわかってくれなかった」と言いました。スペインの人たちは「日本人ってなんであんなに桜が好きなのか」と興味深く聞くのだそうです。いろいろ説明しても全然理解できない。なぜなら、「桜はコストパフォーマンスが悪い木なのではないか」というのが、欧米人たちの頭にあるからです。手間暇はかかるのに、咲いているのは一瞬。「あんなにお金や手間暇をかけるなら、もっと長く楽しめる花を愛でればいいのに」という具合です。「その儚さが 良いのではないか」なんて言っても、首を縦にはふってくれません。

 確かに、「ただ見る」だけでは、経済効率の悪い植物ということになるでしょう。でも私たちは桜を眺めてパワーをもらう。なぜならそこに込められているドラマに思いを馳せているからではないでしょうか。その桜が花を開かせるために長い年月、その準備期間を持っているということだったり、誰かと桜を見た時の思い出だったり、何か自分の人生と重なるような出来事であったり、そのように様々なドラマ、目には見えなくなったプロセスに思いを馳せるから、「明日も頑張ろう」という気持ちを手に入れているのではないかなと思うわけです。

 ドラマを知る。プロセスを知る。そんなことからエネルギーを得ていく。もしかしたらそれは、とても日本人らしい発想なのかも知れないと思うわけです。

   徳との出合い

 金次郎は「それは、あらゆるものが徳を持っているということだ」と言います。そして「水車」の下半分は、そんな「徳」、「ドラマ」「プロセス」と出合っていく場所なのだと言うのです。

 子どもたちが嘘をついたり、悪さをしたりする。一見すれば、それはただ悪いこと、面倒なことです。でも、子どもたちの中で一人たりともダメ人間を目指している子どもはいません。みんなが懸命に幸せに向かって生きている。その子どもたちの生きている姿、徳が見えてくるとき、私たちはいじらしさとか、愛おしさを感じるのではないだろうか。一人ひとりが懸命に生きているその姿は、私たちに何かパワーを与えるのではないかと思うわけです。このように、徳を知る、徳と出合うことが、絆を結び「水車」と「川」が触れ合っていく、その場所だというわけです。

 ただし、「あらゆるものが徳を持っている」という言い方をすると、一般的には「みんな良いところを持っている」と解釈されます。しかし、リアリストの金次郎はその意味では使っていません。「良いところだけの人間なんているはずがないではないか」「傷や悲しみのない人生を送る人間なんて、この世界に一人もいないのだ」ということを金次郎はよく知っていたからです。良いところだけの人がいたとしても、そんな話を聞いて私たちの心は打たれるでしょうか。

 「必ずあらゆるものが傷を持っている。悲しみを持ち、大変な壁を持っている。ただし、今ここに存在している全てのものたちは、本当の意味で失敗をしなかった証なのだ」と金次郎は言うのです。つまり、「あらゆるものが徳を持っている」というのは、「全てのものが傷や壁を乗り越える、知恵と力と実績を持っている」という意味です。

 そのことにもう一度目を向けてみるなら、私たちは自分という存在にも誇りを覚える。知恵、感動、ヒント、様々なエネルギー、そんなワクワク、ドキドキとした、私たちを押し出してくれるパワーは、「徳」と出合うことで生まれるのだ。本当に困った時こそ目を開けて、現実を見て欲しい。実は世界はそんな知恵のドラマで、感動のドラマであふれているのだというわけです。

   実践モデルの報徳

 「徳」と出合うことで、私たちはエネルギーを手に入れ、「川」から這い出すことができる。そして「川」から這い出した私たちは、自分なりの一歩、自分らしい一歩で、「水車」の上半分に向かって行くと言います。金次郎はこの「水車」の上半分を「報徳」という行動だと言うのです。

 「報徳」「徳に報いる」なんてめったに聞く言葉ではないのではないかと思うので、わたしはこれを、もうちょっと自分たちの馴染みの言葉に変えてみようと思います。

 私たちは人間関係、特に「共存共栄」などと言うとき、よく「give and take」という言葉を使います。日本語に訳せば「持ちつ持たれつ」と訳せます。「give」は「あげる」ということです。「take」は「もらう」というもの。「荷物を持ってあげた」から、今度は「荷物を持ってもらう」。一所懸命サービスしてあげたから、代金をもらう。「あげたり」、「もらったり」はセットになっている。「だからお互い助け合っていきましょう」という言葉です。これを受けて、「報徳」が「頑張れば報われる」と訳されることもあります。

 ただしこれは誤った訳と言わざるを得ません。なぜなら報徳は「徳に報いる」という語であり、「報われる」とはならないからです。むしろ金次郎は、この「give and take」「持ちつ持たれつ」という発想を、根本から否定します。「これは人を不幸にする発想だ」と考えたのです。

 なぜかと言えば、「持ちつ持たれつ」「give and take」は「見返り思想」だからです。「こんなにしてあげたのだから、何か欲しい」「こんなに助けたのだから、今度は助けて欲しい」そして、終には「あんなにしてやったのに、これっぽっちしか貰えないのだろうか」「こんなに一所懸命良いことをしているのに、なんで幸せがもらえないのだろうか」そして辿り着いてしまうのは「きっと正直者は馬鹿を見る」という考えです。だからこそ「人を騙してでも、自分さえ良ければ」という形に向かって行ってしまう。

 金次郎は、それは私たちをどんどん疲れさせてしまうだけだと言います。「もっと楽しく、もっと楽に行動をしましょう」というのが「報徳」であります。

 「水車」は「あげる」ことを最初にはしていません。「川」に押し出して「もらう」ことをしています。「川」に感動をもらい、知恵をもらい、ヒントをもらい、パワーをもらい、ワクワクドキドキをもらい、そうやって押し出してもらうから、初めて回転を始めることができるのです。

 つまり金次郎が言おうとした「報徳」とは、「take and give」と言いかえて良いと思います。「持たれつ 持ちつ」と呼んでも構いません。まずは「もらいましょう」。その上で、今度自分たちがしてあげることを考えたら良いではないかと言うのです。

 私たちが今、何気なくくらしている毎日は、どれ程多くの仲間たちに支えられて、成立しているのでしょうか。同時代の同志たちの懸命の働きがあって、私たちはくらしています。先人、先輩たちの懸命な働きの上に、私たちの今があります。自分には、いかに多くの仲間たちがいるか。与えられてきたものがあるか。受け取ってきたものがあるか。そんなことに気付くのではないだろうか。その「気付き」を力に、今度は自分が、誰のどんな荷物を持ってあげることができるのか。どんな行動ができるのか。そう発想していこうではないかと言うのです。

 つまりこれは「見返り」ではなく、「恩返し」という発想であり、「幸せだから頑張ろうではないか」と、呼び掛けているものであります。幸せになるために犠牲を払うのではありません。幸せになるために我慢をするのではありません。幸せはどこか遠いゴールにあるものではなく、むしろスタートラインであって、私たちの背中を押し出してくれるもの。それが幸せということなのではないかと彼は考えていたわけです。

 さきほども言いましたが、「報徳」それは「頑張れば報われる」という言葉ではありません。これは「徳に報いる」という言葉です。では、なぜ徳に報いなければいけないのか。それは、私たちが徳を受けたからです。「受けた徳に報いていこうではないか」「幸せだから頑張ろうではないか」という呼び掛けだったということです。

   スポーツ界の報徳

 実はこの「give and take」から「take and give」の発想はスポーツ界の人づくりでいち早く取り入れられていったものだったのです。これまで、その人づくりは「give and take」でされていたのです。我慢をして嫌なことをすべてやって「あげる」から、金メダルを「もらう」ことができる。頑張ったものだけが報われる。つまり、どれだけ犠牲を払えたか、我慢できたかが、幸せに辿り着くポイントなのだと教えていた。

 ところが近年スポーツ界では、この教え方をしなくなりました。今回のオリンピックのインタビューを聞いていても、彼らの口からは、「ファンのおかげで」「家族のおかげで」「支えてくれた仲間のおかげで」「多くの多くの支えがあって」、そしてそのための「恩返しとして頑張ることができた」と、そんなふうに言うわけです。幸せだからステージで頑張ろう。そしてその頑張りは自分の幸せであるだけでなく、みんなへの恩返しとなり、みんなの笑顔をつくりだしていくものになるのだ。幸せは奪い合うものではなく、広げていくもの。そして大きくしていくものなのだと、そんなふうに教えるわけです。

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