滋賀の生協 No.146 (2008.12.12
二〇〇八年度役職員研修会 10月4日 木地師山の子の家
『岩手県における県連活動と会員生協の取り組み』
岩手県生協連 会長理事  加藤 善正さん

 協同組合運動は組合員と常勤者の協同であり、こうした人々の「自主性・自発性」が発揮されたとき、協同の力が一番発揮されるというものです。そのためには、トップダウンや上意下達、指示命令やマニュアルで進めるのではなく、どうすればみんなのベクトルが合わせることができるか、ここに協同組合運動のエネルギーが存在するという考え方です。 (講演内容より抜粋)

熱心にお話しされる加藤会長理事

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私の生協人生
  今日は岩手における県連を中心とした、生協運動の実際を報告させていただきます。

 私は一九六〇年に北海道から岩手大学・林学科に入学しましたが、入学と同時に「六〇年安保闘争」という、わが国の歴史上も特筆される国民的大運動に遭遇し、熱心にこの運動にも参加しました。しかし、結果的に日米安保条約は自然成立という形で決まりました。その後、安保闘争の「敗北感・挫折感」が社会を覆った世相がありましたが、一方において、これだけ盛り上がった国民的運動の弱点は、やはり戦後民主主義がまだ十年余の歴史しかなく、日本における本当の民主主義、憲法に明記された「主権在民の確立」、本当の「民主主義革命」が必要であるという運動も再出発する時代でした。

 当時まだ岩手大学には生協がなく、六〇年七月ごろから大学生協設立運動が盛り上がり、秋には学生と教職員が一緒に発起人会が作られ、六一年五月「岩手大学生協」を創立しましたが、それまで生協設立運動をリードしていた先輩が学業に励むと言うことになり、二年生だった私が学生の中心になって、設立後間もない大学生協の実務や運営に没頭しました。

 岸首相に代わった池田内閣は「所得倍増計画」を打ち上げ、十年間で国民所得を二倍にするという、いわゆる「高度経済成長政策」を打ち出しました。確かに企業の業績や賃金も上がりましたが、物価上昇も激しくインフレが続きました。しかし、タイムラグがあり学生への仕送りやアルバイト料はまだ上がらず、学生生活は厳しいものがあり、学内の厚生施設としての生協への期待は大きく、大学の協力も在り組合員の利用結集によって生協事業は急速に拡大しました。

 当時の大学生協連は、こうした組合員のニーズに応える事業の拡充と教育環境整備運動、学問の自由・大学の自治、消費者運動や平和・民主主義の運動の旗を高く掲げ、安保闘争の流れを絶やさず、運動と事業の一体的展開を基本に位置づけていました。

 私はその後、岩手大学生協を「協同組合として」発展させることにこだわりつつ、六九年には、大学周辺に「盛岡牛乳を安く飲む会」という共同購入組織を立ち上げ、その秋には「盛岡市民生協」の創立をみんなで進めました。当時、大学生協が支援した市民生協運動が全国的にも日本の新しい生協運動の歴史を切り開いてきたことは、皆さんもご存知のとおりです。市民生協を二十年間進め、その間、県内生協の合併を提唱し、十年近い論議を積み重ね、一九九〇年、六つの地域生協が一つになり「いわて生協」ができました。その後、九五年にはみやぎ生協・山形共立社・いわて生協が力を合わせて「コープ東北サンネット」を結成し、病気になるまで七年間、理事長を務めました。

 このように、私は現在の県連会長理事(半常勤)を含めて、一九歳から六八歳の今まで、半世紀近く生協運動を愛し、誇りを持って、悩みながらも組合員・常勤者の皆さん、取引事業者や地域の多くの方々のサポートで、まずまず順調に生協人生を歩んでくることができました。


協同組合運動としての生協にこだわって
  先ほど申し上げましたように、当時の全国の大学生協は「学生運動」としての性格が強い状況で、教職員の組合員組織率はきわめて低く、ICAなどの協同組合理念・原則などにもほとんど関心がなかった状況でした。私は大学生協を始めた頃、佐藤正先生(農業経済学者・岩大生協の学識理事)の勧めもあり、「一楽照雄先生」の著書を何冊か読み、お会いする機会もできました。一楽先生はご存知の方も有られるでしょうが、全中から農林中央金庫に出られて常務理事をされ、その後「協同組合経営研究所」を立ち上げ理事長を長年務められた方です。日本有機農業研究会をつくられ、長い間会長をなされて、「日本の協同組合はいかにあるべきか」「日本農業のあるべき姿は」を問い続け、「一楽天皇」とも呼ばれた理論家・実践家であり、農協・漁協・生協の中に大きな影響を与えた偉大な方でした。

 こうした関係もあり、岩手大学生協は「協同組合らしい生協」として、ICA理念や原則も学びながら、学生だけでなくむしろ長年組合員であり続ける教職員の組織化やそのニーズの事業化に務め、教職員組合・学生自治会・学寮自治会などと連帯して学内民主化に独自の役割を求めていました。

 また、地域生協づくりも、当時、大学生協が直接支援し、創立総会もが大学生協関係者を中心にわずかの人々で開催する状況でしたが、私たちは「牛乳の共同購入組織」をつくり、その中で生協とは、協同組合の歴史とは、コープ商品とは、などの学習を毎月の班長会議等で行い、この組織の剰余金をみんなで分け合いながら、出資金をあらたに集めるという形で準備し、創立総会は二千名の賛同者のうち六百五十名の実出席で開催しました。

 市民生協の班長会議にも一楽先生をお呼びして、何回かの学習会を開きましたが、その中のエピソードをご紹介したいと思います。前日来盛された先生は、私どもの創立間もない活動を大変評価していただきましたが、学習会では一変し「皆さんは加藤専務のような危なっかしい人物をいつまで専務にするつもりか。昨日聞いたら、出資金に定期預金利息ぐらいの配当金を予定すると言って、増資を呼びかけていますが、皆さんは配当金を目的に出資・増資されているのですか。それでは金儲けを目的にする株式会社の株を買うと同じではないですか。皆さんは組合員の願いを少しでも実現するために、せっかく創った生協をしっかり支えるために、工面しながらお金を出しているのではないですか。配当金で出資を誘うような専務は生協運動のリーダーとしては失格ではないですか。生協の主人公は組合員なのですから、早くこうした専務を辞めさせる力を待たなければなりません。」私は自分の顔が赤らみ、それまで経験したことのないぐらいの恥ずかしさと反省をしたことをいつも思い出して、その後の生協を進めてきました。

 一楽先生の協同組合運動や環境問題に対する理念・ICAにおける様々な議論や決定を学び、できるだけこうした理念・原則に忠実な生協運動、とりわけ一九九五年の「協同組合のアイデンティティに関するICA声明」をいかに実践するかを、絶えず重視してきたつもりです。

 こうした私なりの生協運動の実践から考えても、現在の日本生協連の路線や政策に対して、大きな危機感を持ってまいりました。今、日本の生協はこれまで経験したことがない「転換点」「曲がり角」を進んでいますが、全国の生協人がどれだけその「実感」をお持ちなのでしょうか。最近の日生協総会において、私はいくたびか「ICA声明のアイデンティティ」に立ち返って、今日の「貧困と格差」「市場競争原理」「規制緩和」がもたらす社会状況における「生協運動のミッション」の明確化を求めて発言を繰り返して参りましたが、こうした要求や提言は完全に無視された状況です。それでよいのでしょうか。

 さて、これから報告します岩手の生協運動は、こうした問題意識の下に、「それぞれの生協はどういう存在意義があり、どういう使命を持っているのか」を問いかけ続け、「会員生協がこうしたテーマを深めつつ、その事業と運動を一体的に展開する上で、県連はいかなる機能を果たすのか」を模索してきた報告であります。そして、県内生協全体として、「今日の社会における協同組合の意義と使命は何か」「地域社会において岩手の生協はどういう役割を果たしているのか」を組合員・常勤者が問い続け、地域社会からの評価が、自らの評価とどのくらいの差異や距離を持っているのかを話し合ってきました。


県連加入生協の現状と中期計画づくり
 岩手県連は一九六六年七月に設立しました。岩手大学生協が設立して五年、私が常勤専務になった頃でしたが、学校生協、県庁生協など戦後まもなく発足した生協に加え、設立間もない労済生協・医療生協などと一緒に私も設立に加わりました。初代会長は当時の県庁生協の理事長の方で、彼はその後、副知事・知事・衆議院議員などを務めましたが、協同組合に対する正しい知識があり、私は大変お世話になりましたが、県行政と生協連との信頼関係がその後も継続しているのには、その方、中村直氏の影響があったと思います。

 現在の県連加入生協は、いわて生協・生活クラブの地域生協、学校・県庁・大学(二生協)・市役所生協(四生協)の職域生協、盛岡医療生協、労済生協のほか、全国でも珍しい岩手県信用生協、全国唯一のみやこ映画生協があり、JA花巻を加えて十五会員になっています。

 信用生協は「多重債務」問題に取り組み、三十五すべての市町村から「預託金」を預かり、金融機関からこれを担保に協調融資を受け、また、県弁護士会とも力を合わせて極めて有意義な活動をしております。私はこうした実績を踏まえて日生協に「信用生協」の全国的な設立運動をすべきであると繰り返し要求してきましたが、銀行協会やサラ金業界に気兼ねする厚労省に真正面から交渉したり要請することさえしておりません。この信用生協の多重債務者救済の取り組みも二〇周年を数えております。

 みやこ映画生協は、宮古市など三陸沿岸の町には一館の映画館もなくなる中で、市民有志による自主映画上映が取り組まれていました。いわて生協が十年前に人口五万人弱の宮古市に「DORA」という二千三百坪のショッピングセンターを建設する時、常設の映画館を是非つくってほしいという、こうした市民の要請があり、いわて生協とは別に市民自身が「出資・利用・運営参加」する「映画生協」の設立を提案しました。私は全国初の映画生協の設立認可を渋る岩手県や厚生省を説得して、二スクリーンの常設映画館、何よりも市民の総合芸術としての映画への理解や市民自身の生活文化向上に貢献する「文化運動体」としての生協を目指しました。

 二〇〇七年度期末のトータル数値は(JA除く)、組合員五十万百七名・出資金百二十億六千四百万円・事業高五百四十一億円・地域生協の県民組織率は三八・四%となっています。

 私は大学生協、盛岡市民生協、いわて生協においても県連においても、「生協は中期計画づくりの運動である」ということを訴え、実践してきました。この考え方は、協同組合運動は組合員と常勤者の協同であり、こうした人々の「自主性・自発性」が発揮されたとき、協同の力が一番発揮されると言うものです。すなわち、日常の活動も仕事も、その目的や意義・価値がわかり、みんなが同じ方向を見ながら、お互いに励ましあいサポートする中で取り組むことが、やり甲斐も持て達成の可能性が高いし、充実感も味わえるに違いない。

 そのためには、トップダウンや上意下達、指示命令やマニュアルで進めるのではなく、どうすればみんなのベクトルが合わせることができるか、より自発性・自主性を発揮できるか、ここに協同組合運動のエネルギーが存在するという考え方です。

 生協は年度ごとの目標や方針・事業計画を持って活動をしていますが、せめて三年間ぐらいの計画や数値でないと、一年間はすぐ終わってしまいます。そこで、三年~五年ぐらいの中期計画をみんなで作ることを「運動として」展開することが必要です。できるだけ多くの組合員や常勤者が参加して、「組合員の経済的・社会的・文化的ニーズと願い」がどこにあるのか、調査やアンケート・話し合いの中で、具体的にそれらを掘り下げる作業、こうした組合員の暮らしの実態、くらしの基盤である地域社会の実態、それらを取り巻く政治経済の「原因と結果」などを掘り下げます。また、生協の事業や経営の構造的な強みと弱み、競争店舗などの強みと弱みの分析を組合員の立場から分析します。さらには、ICA原則や価値などと実際のわが生協の到達点分析、外部の各界の人々からの生協への評価や苦言なども重視していくことが大切です。

 こうして、三~五後の目標や到達したいレベル、それをいかなる方策で取り組んでいくのか、その考え方と手段、具体的アプローチの道筋を計画します。重要なのは言葉だけではなくそれを「具体的なイメージ」としてみんなが共有化できるか、そして数値として組み立て損益・財務の年度計画にまとめ上げていきます。

 この中期計画は、トップが何年先まで見通せるかで長さが決まりますが、せめて三年ぐらいの計画が必要でしょう。こうした作業は少なくても半年ぐらいはかかりますが、その取り組みの中で、組合員活動家や常勤者のベクトルが次第にあってきますので、そのベクトルに合わせて、実際の活動や仕事がより自発的に自主的に展開される可能性が高まります。 岩手県連のこれまでの中期計画は次のようなものでした。年度が続かないときは無理をせず、おおよそ合意ができたときからスタートしています。

* 第一次中期計画(一九八一~一九八五年度) 県内生協を全県的に発展させる基盤づくり、特に地域生協の設立支援。
* 第二次中期計画(一九八七~一九八九年度) 地域生協の連帯・統合と全生協の健全経営の確立。 (九〇年、六生協合併によるいわて生協設立)
* 第三次中期計画(一九九一~一九九三年度) 組合員のくらしの変化に対応した新しい生協事業の強化・確立。
* 第四次中期計画(一九九六~二〇〇〇年度) 二十一世紀を展望し、地域社会に貢献する生協づくり。
* 第五次中期計画(二〇〇一~二〇〇四年度) 四つの危機(くらし・地域・平和・経営)に真正面から取り組む生協、協同組合のアイデンティティとミッションを深め、常勤者のマネジメント改革で組織・事業・経営の質的強化。(地域に根ざし役立ち・信用され・サポートされる生協)
* 第六次中期計画(二〇〇五~二〇〇九年度) 四つの危機に対応できる岩手の生協の総路線の確立、協同組合としての主体形成に力を注ぎ、組合員と地域を守る大衆運動の展開 (新しい貧困・格差の拡大、市場原理主義への抵抗、改めて運動と事業の一体的展開、ICA理念・価値・原則の忠実な実践推進)
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