| 私の生協人生 |
今日は岩手における県連を中心とした、生協運動の実際を報告させていただきます。
私は一九六〇年に北海道から岩手大学・林学科に入学しましたが、入学と同時に「六〇年安保闘争」という、わが国の歴史上も特筆される国民的大運動に遭遇し、熱心にこの運動にも参加しました。しかし、結果的に日米安保条約は自然成立という形で決まりました。その後、安保闘争の「敗北感・挫折感」が社会を覆った世相がありましたが、一方において、これだけ盛り上がった国民的運動の弱点は、やはり戦後民主主義がまだ十年余の歴史しかなく、日本における本当の民主主義、憲法に明記された「主権在民の確立」、本当の「民主主義革命」が必要であるという運動も再出発する時代でした。
当時まだ岩手大学には生協がなく、六〇年七月ごろから大学生協設立運動が盛り上がり、秋には学生と教職員が一緒に発起人会が作られ、六一年五月「岩手大学生協」を創立しましたが、それまで生協設立運動をリードしていた先輩が学業に励むと言うことになり、二年生だった私が学生の中心になって、設立後間もない大学生協の実務や運営に没頭しました。
岸首相に代わった池田内閣は「所得倍増計画」を打ち上げ、十年間で国民所得を二倍にするという、いわゆる「高度経済成長政策」を打ち出しました。確かに企業の業績や賃金も上がりましたが、物価上昇も激しくインフレが続きました。しかし、タイムラグがあり学生への仕送りやアルバイト料はまだ上がらず、学生生活は厳しいものがあり、学内の厚生施設としての生協への期待は大きく、大学の協力も在り組合員の利用結集によって生協事業は急速に拡大しました。
当時の大学生協連は、こうした組合員のニーズに応える事業の拡充と教育環境整備運動、学問の自由・大学の自治、消費者運動や平和・民主主義の運動の旗を高く掲げ、安保闘争の流れを絶やさず、運動と事業の一体的展開を基本に位置づけていました。
私はその後、岩手大学生協を「協同組合として」発展させることにこだわりつつ、六九年には、大学周辺に「盛岡牛乳を安く飲む会」という共同購入組織を立ち上げ、その秋には「盛岡市民生協」の創立をみんなで進めました。当時、大学生協が支援した市民生協運動が全国的にも日本の新しい生協運動の歴史を切り開いてきたことは、皆さんもご存知のとおりです。市民生協を二十年間進め、その間、県内生協の合併を提唱し、十年近い論議を積み重ね、一九九〇年、六つの地域生協が一つになり「いわて生協」ができました。その後、九五年にはみやぎ生協・山形共立社・いわて生協が力を合わせて「コープ東北サンネット」を結成し、病気になるまで七年間、理事長を務めました。
このように、私は現在の県連会長理事(半常勤)を含めて、一九歳から六八歳の今まで、半世紀近く生協運動を愛し、誇りを持って、悩みながらも組合員・常勤者の皆さん、取引事業者や地域の多くの方々のサポートで、まずまず順調に生協人生を歩んでくることができました。 | |