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第二七回滋賀県生協大会 「広がる貧困その再生をめざして」(1)

滋賀の生協 No.154(2010.12.10)
第二七回滋賀県生協大会
「広がる貧困その再生をめざして」

二〇一〇年一二月四日(土)滋賀県男女共同参画センターGーNETしが 大ホール

反貧困ネットワーク代表 宇都宮 健児弁護士



 「サラ金問題」に関わるようになったきっかけとは。「多重債務問題」から「貧困問題」に取り組むようになった理由とは。現代の貧困拡大の要因と特徴とは。「派遣村」の名誉村長であり、「反貧困ネットワーク」代表でもある宇都宮弁護士に、自らが辿ってきた足跡を語っていただきました。

   私の生い立ち

 私は弁護士になって三〇年、「サラ金・クレジット問題」「多重債務問題」を取り組んできました。それが「貧困問題」を取り組む契機となっていますので、まず「サラ金事件」との出会いから話をさせていただきます。

 私は、愛媛県東宇和郡明浜町田の浜という漁村で生まれました。九州と四国の間にある豊後水道に面した小さな漁村で、戸数が二百戸ぐらいでした。父親は半農半漁で、一年の半分ぐらい農業をやり、夏の時期は一本釣りをして生計を立てていました。

 しかし、私が小学校三年の時、そういう生活では立ち行かなくなり、豊後水道をはさんだ大分県の国東半島に開拓農家として入植しまして、山を切り拓いて畑をつくり、初めは芋とか麦をつくっていたんですけど、途中からみかん農家になっています。現在父親は九十四歳になっていますが、まだ国東半島で生活をしています。

 実は私、弁護士事務所を二回クビになっていますが、そのことが「サラ金事件」を取り組むきっかけになっているんです。大学の時に東京に出て来ていましたので、東京で弁護士生活をスタートすることになります。普通、弁護士になるとまず既存の事務所に就職をして、そこでお給料をもらって事務所の仕事をやりながら、弁護士としての訓練を経て独立するというパターンをとります。いきなり独立しちゃうと事務所を借りるのに家賃がかかりますし、事務員を雇うと給料を払わなければならないですから、それだけの収入がないとダメなんですね。

 既存の事務所で働いている弁護士のことを、正式には「勤務弁護士」と言うんですけど、私たちの業界では「イソ弁」と言っています。そして雇っている弁護士を「ボス弁」と言うんですね。弁護士の「イソ弁生活」は、普通三年から五年くらいですが、私は最初の事務所に八年いまして、八年目に「ボス弁」から「宇都宮君、あんたえらい長いね。もうそろそろじゃないかね」と「肩たたき」をされちゃったんです。

 私はいろいろな人と交流しながら人脈を広げることが極めて不得意な人間で、「肩たたき」された時には自分の顧客はほとんどいなかったんです。だから、「もう一回、イソ弁の口を探すしかない」ということで、東京弁護士会の窓口に「イソ弁を探しているボス弁のリストを見せてもらえませんか」と頼みに行ったんです。東京弁護士会の職員から「新しく弁護士になる方ですか」と訊ねられて「いや、もう八年も弁護士やっています」と言ったら苦笑されました。そこで「ボス弁」のリストを教えてもらいまして「就活」をやるわけです。「なんとか雇ってもらえんでしょうか」と、一軒一軒事務所を回って、四軒目ぐらいのところでやっと「じゃあ雇ってあげてもいいよ」という事務所に巡りあうんです。それが一九七〇年代の終わり頃でした。

   サラ金事件との出会い

 この頃「サラ金」が大きな社会問題となっていました。今は「消費者金融」と言っていますが、当時はアコム、武富士、プロミス、レイクというような会社を「サラ金」と言っていました。「サラ金」というのは「サラリーマン金融」の略ですね。

 当時は「規制法」がありませんでしたので、年百パーセント近くの高金利でお金を貸していました。五十万円借りると一年間後には、元本が倍の百万になっちゃうんですね。そして、返済が滞った人には暴力的、脅迫的な取立てを「夜討ち朝駆け」でやるわけです。だから、行き詰った人が弁護士会へ次々と相談に来たんですね。

 ところが当時は、そういう事件を受ける人があまりいなかったんです。

 大体「サラ金」の相談者というのは一人で十社、二十社、多い人は五、六十社借りていて、そういう業者が弁護士に対しても暴言を吐くわけです。当時、私なんかにもジャンジャン電話がかかってきて、「ボケ、カス、このやろう」「宇都宮はおるか。お前代理人なら金払え」「金も払えない代理人なら、代理人を降りろ。俺たちが直接取り立てる」といった口調で暴言を吐くわけです。今の「ヤミ金」と変わらない状態だったわけですね。そういう滅茶苦茶な業者を相手にしなければいけない。しかも相談者は経済的に困った人が多いから、弁護士費用も払えそうにない。だから、「たらいまわし」にしちゃうんですね。

 すると「サラ金」からお金を借りて困っている人は「折角足を運んだのだから誰か紹介してください」と、弁護士会の職員の方に苦情を言うわけです。職員も思案に暮れた時に「そういや、八年もイソ弁をやってクビになった弁護士が一人いたね」と、私のことを思い出したわけです。「宇都宮さんは田舎から出て来て人の良さそうな弁護士だからやってくれるんじゃないか」ということで、私のところへ回すようになった。

 それが「サラ金事件」と出会ったきっかけです。

   貸金業者の苛酷な取立て

 私は「どんな事件でもありがたい」と思って受けたんですけど、やり方がわからない。同僚や先輩の弁護士に電話を掛けまくったんですけど、誰もやったことがないんです。

 「しょうがない」ということで、相談者と一緒に「サラ金」二十社に出向いて行きました。一軒一軒「私が代理人になったから、もう本人や家族に取立てしないでください」「文句があったら私の方に電話してもらえませんか」「この人にいくら貸して、いくら返してもらったか明細書を出してもらえませんか」という話をするわけです。

 「サラ金」の方も「弁護士だって関係ネエゾ。俺たち取立てるからな」「明細?そんなもの出す義務はない」と、店頭で「出せ」「出さない」というやり取りをやるわけです。そして、翌日には電話がかかってきて、暴言を吐くわけです。

 弁護士に対してもこうですから、本人に対しては無茶苦茶な取立てをやっているわけですね。夜の十二時ごろ相談者から電話がかかってきて、「今、サラ金の社員が来ているんです。お金払うまで帰らないと言っています。子どももおびえて寝られないんです。なんとか追い返してもらえませんか」と言うんです。それで、「サラ金」の社員を電話口に出してもらって「こんな夜遅く人権侵害やないか」と、「帰れ」「帰らない」のやり取りをやって、なんとか追い帰すわけです。そしたら、今度は朝六時ぐらいに「今度は違うサラ金が来て、なかなか帰ってくれない」という電話がかかってくる。それでまた眠い目をこすりながら電話口でやり取りするわけです。

 中には「俺たちだって、好き好んで取立てに来ているわけではないんですよ。店長から、金をとってくるまで帰るなって言われているんです。店長と話をつけてください」と言う「サラ金」の社員もいます。それで、店長とやり合いをするわけです。「サラ金」の社員から「やっと帰れました。ありがとうございました」というお礼の電話をもらったことがあります。

   自殺や家出、夜逃げ、犯罪が多発

 当時は、「サラ金の取立てによる一家心中」「自殺」「夜逃げ」、中には「サラ金苦による犯罪」が、毎日のように報道されていました。私の相談者の中にも、手首に二、三か所切り傷が残っている人も来ましたし、睡眠薬自殺を図った人も来ました。睡眠不足で目が充血し、顔が青白くて頬がこけているような人が来るわけです。そういう人の相談を受けたら、こちらに罵詈雑言の電話がかかってきます。だけど、その分だけ相談者への取立てが和らぎますから、二、三週間もしますと目の充血は治って、心なしかこけた頬がふっくらしてくるんですね。だから「これは人の命が懸っている事件だ」「家族全員の生活が懸っている事件だ」とやりがいを感じ、ドンドン受けるようになるんです。すると、弁護士会の職員は「良い弁護士を見つけた」と、ドンドン回してくる。そしてついに「もう一人では対応できない」ということで、一九八〇年二月、東京弁護士会で初めて「サラ金専門の相談窓口」をつくりました。

 当初、弁護士会の相談センターは、離婚の相談、借地・借家の相談、相続の相談などと一緒に、「サラ金の相談」もやっていたんですが、「サラ金の相談」は「たらいまわし」になっちゃう。それで「たらいまわしはしてはいけない」というルールで始めたんですけど、担当者が少ない上に、相談者が次々に来ますので、だんだん予約制になっていくわけです。一番長い時で三カ月先でないと相談が受けられない状態になりまた。

 「サラ金」の返済日は毎月一回来ますので、二か月、三カ月先だとその間に取立てを受けてしまいますから、予約当日に相談者が半分以上来ないわけです。もう「夜逃げ」しちゃっているんですね。そうこうしているうち、弁護士会の周りに怪しげな風体の男性がうろつくようになりまして、調べてみると「ダフ屋」で、手下に相談者のフリをしてとらせた「予約券」を十万、二十万で相談を受けたい人に売りつけていたわけです。

 こういう状況ですから、もう担当者弁護士を増やすしかない。「こんな大変な事件なのになんで増えないんだろう」と話を聞いてみたら、「サラ金の相談者は弁護士費用を払えないんじゃないか」と考えている人が多いことがわかりました。それで、「どうしたら弁護士費用をもらえるか」という講演会を開いたんです。すると会場にあふれんばかりの弁護士さんが集まりました。

 私は、「サラ金からお金を借りている人は、サラ金に分割でお金を払っている。だから弁護士費用だって分割払いで良いんじゃないでしょうか」と、私の経験をお話しました。「サラ金業者」に事件を引き受けたことを連絡すると、私の方に電話が来ることになり、相談者への取立てが少し和らぎます。すると、毎月十万円、二十万円と払っていた生活が改善され、生活費や家賃を除いて三万円、四万円ぐらい捻出できるようになるんですね。私は、その捻出したお金の一部、五千円、一万円を弁護士費用として分割でもらって、残りを「サラ金」の返済に充てるようにしていたんです。

 この話に、弁護士さんはすごく感動しまして、中には握手を求めてくる人もいたんです。「目から鱗が落ちました。分割払いで良いんですよね」ということをしきりに言うわけですね。弁護士の世界では「離婚事件」「相続の事件」などを受ける時は、最初に「着手金」を受取ります。そして終わった時に「報酬金」を受取ります。「着手金」や「報酬金」は一括で支払われることが慣行になっていたので、「分割でもらう」という発想がなかったんですね。

 「分割払いでも良いんだ」ということが浸透するにしたがって、担当者が少しずつ増えて、相談が殺到してもすぐ受けられるようになりました。今、東京の弁護士会では、四ツ谷と神田と錦糸町に「サラ金・クレジット専門相談窓口」をつくって、大体千四百人の弁護士が相談を受けるようになっています。ウィークデーであれば電話したら翌日にはすぐ相談が受けられます。

 こうして、私がドンドン「サラ金事件」の相談者を受けるようになると「ボケ、カス、この野郎。宇都宮おるか」という電話もかかって来るようになり、二番目の事務所とも軋轢が生じました。「ボス弁」から「あの品の悪いサラ金事件から手を引いてくれないか」と言われたんですね。でも、私は「人の命が懸っている事件なので、何とか担当者になってくれ」と、お願いして回っている立場なので、抜けられなくなっていた。それで二回目の事務所も、四年間勤めてやめることになります。

 私は十二年間「イソ弁」生活をやりまして、二回クビになっているわけです。それで、十三年目に独立した時には、自分の事件は「サラ金事件」だけだったんです。当時の東京で、「サラ金」だけで経営をやっている事務所はあまりなかったので、「やっていけるかどうかわからない。もしかしたら自分は弁護士に向いてなかったんじゃないか」と思ったりもしました。

 私が独立した一九八三年四月に、「貸金業規制法」「出資法の改正法」という法律、通称「サラ金規制法」が通ることになるんです。国会で議論され、マスコミが「サラ金問題」に関心を持つようになって、その法律の解説書を書くことになりました。それが結構広く読まれ、読んだ人が相談に来るようになりました。一人ひとりの相談者から分割で五千円とか一万円ずつ、それを大量にやることによって事務所が成り立っていくようになりました。


   出資法と利息制限法

 「サラ金」とか「クレジットカード」でお金を借りますと「金利」を払わなければなりません。

 「金利」については「出資法」と「利息制限法」という二つの法律があります。「これ以上金利をとると処罰されますよ」と「金利の水準」を決めている法律が「出資法」です。もう一つ、「これ以上の金利の契約をすると、その金利の条件を超えた部分は払わなくても良いですよ」という法律が「利息制限法」です。しかし、「利息制限法」には罰則がないんですね。だから「サラ金」とか、クレジットカード会社は、「出資法」の上限金利は守っていたわけです。それを超えますと摘発されて、場合によれば刑務所に入れられちゃいますから。

 一九七〇年代の終わり頃、「出資法」の上限金利は年一〇九・五パーセントでした。

 一九八三年に「サラ金規制法」ができ、登録をしないと「サラ金」の営業ができなくなりました。「取立て規制」という制度もできまして、「夜九時以降、朝八時以前の取立てをしてはならない」「弁護士が間に入った時は直接取立てができない」ことになり、これ以降「サラ金」も「ボケ、カス、この野郎。宇都宮」というようなことは言わなくなったんですね。施行された一一月一日以降は「宇都宮先生いらっしゃいますか」と一変して丁寧になりました。

 それから「出資法の改正」も行われて、一〇九・五パーセントから、一九八三年に七三パーセント、一九八六年に五四・七パーセントと、順次下がって行きました。

   画期的な改正貸金業法

 私たちは、目の前にいる被害者は救済できるんですけど、その背後に何十万、何百万人の被害者がいるんですね。現在「消費者金融」の利用者は千五百万人ぐらいいます。ちなみにクレジットカードは三億枚以上発行されています。千五百万人の「サラ金」「消費者金融」の利用者のうち、自分の収入で返済できなくなっている人は二、三百万人いると言われています。

 そのうち、弁護士会や司法書士会、消費者センター、法テラス(日本司法支援センター)、法テラスとは経済的余裕のない人に対して、弁護士費用、司法書士さんの費用を立て替えてくれるようなところなんですけど、こういうところに相談に来られる人は、二、三割程度だと言われています。残りの七、八割は「相談窓口」に辿りつけてないんですね。

 私たちは、一九七〇年代の終わりから、「目の前の人を救済するだけではなく、その背後にいる多くの人たちを救済するためにどうしても法律の改正が必要だ」ということで、「立法運動」にも取り組むようになります。

 その結果、二〇〇六年一二月に画期的な法改正ができます。

 これまでも「出資法」の上限金利は下げてきたんですけど、「利息制限法」との間の「グレーゾーン金利」がずっと残っていたんですね。「クレジットカード会社」とか「サラ金会社」は、「利息制限法」を無視して「出資法」だけを守っていましたので、この「グレーゾーン金利」で莫大な利益を上げていた。三〇年ぐらい前の「サラ金」は小さな貸金業者でしたが、一九九〇年代の終わりから二〇〇〇年の初めにかけては、大手の「サラ金」は一部上場企業になり、経団連に加盟するような大企業になった。テレビで朝から晩までコマーシャルが流されていましたよね。

 「サラ金」が広がるなか自殺とかの被害も広がっていた。その被害を無くすためには「グレーゾーンをなくさないといけない」という運動をした結果、二〇〇六年一二月に「グレーゾーンを撤廃する」法改正がなされました。それから「年収の三分の一を超えた貸付をできなくする、総量規制」も導入され、二〇一〇年六月一八日、「改正貸金業法」が完全施行されたんですね。

 法改正で「利息制限法」を超えた貸付ができなくなり、二〇一〇年九月「武富士」が倒産します。業界トップ企業が倒産したことは非常に象徴的な意味がある。私自身も三〇年間「多重債務問題」に取り組んできて、大変感慨を覚えています。

 ちなみに、この法改正が行われたのは、小泉、竹中さんが中心となった「新自由主義・市場原理主義的な構造改革路線時代」で、「あらゆる経済的規制をとっぱらって経済活動を活性化させるんだ」という政策がとられていたんですけど、この「貸金業法の改正」は、逆に規制を強化しているんですね。

 しかし、この法改正は簡単にできたわけじゃない。業界団体は徹底的に反対しました。しかもその業界は、一部上場企業になっていますから、大きな政治団体をつくって与野党問わず政治献金をして政界工作をやっていたんですね。

 しかもこの時、政府は規制緩和政策を遂行していましたし、アメリカ政府も「貸金業法の改正」、特に「金利規制」「グレーゾーン規制の撤廃」には反対していたんです。「レイク」は元々日本の「サラ金」でしたが、当時は「GEグループ(ゼネラルエレクトリックグループ)」が買収し、アメリカ系「サラ金」になっていました。「ユニマットライフ」「ディックファイナンス」「アイク」などの「サラ金」は「CFJ株式会社」という、シティーバンク系の「サラ金」に統合されたんです。さらに、日本の「サラ金」の株を買って運用していたアメリカの投資ファンドグループも加わって、当時のブッシュ政権に働き掛けて、日本政府への圧力を強化させたということです。

 私たちは弁護士、司法書士、「多重債務者、サラ金・クレジットの被害者」は、共に三〇年間この運動をやってきました。しかし、この二〇〇六年の法改正が、「金利規制」に反対する強力な抵抗勢力があったにもかかわらず成功したのは、今までよりももっと運動のウィングを広げて、労働団体や消費者団体を巻き込んだ運動を展開して世論を変えていったからなんです。

 三百四十万筆の「金利引き下げ署名」を集めて、国会に提出しました。地方自治体の「金利引き下げ決議」の採択運動をやりまして、四三都道府県、千百三十六市町村議会で採択するなど、運動を広げていきました。

 その結果、当時の自公政権の中にも、比較的若手の議員を中心に「やっぱり金利を下げるべきだ」「グレーゾーンを撤廃すべきだ」という声が広がって、「金利引き下げグループ」が多数派を形成するようになりました。

 その結果、こういう画期的な法改正がなされたということです。


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