活動のご案内

トップページ > 活動のご案内 > 他団体との交流 > 岩手県における県連活動と会員生協の取り組み

岩手県における県連活動と会員生協の取り組み

滋賀の生協 No.146 (2008.12.12)
二〇〇八年度役職員研修会 10月4日 木地師山の子の家
『岩手県における県連活動と会員生協の取り組み』
岩手県生協連 会長理事 加藤 善正さん

 協同組合運動は組合員と常勤者の協同であり、こうした人々の「自主性・自発性」が発揮されたとき、協同の力が一番発揮されるというものです。そのためには、トップダウンや上意下達、指示命令やマニュアルで進めるのではなく、どうすればみんなのベクトルが合わせることができるか、ここに協同組合運動のエネルギーが存在するという考え方です。 (講演内容より抜粋)


熱心にお話しされる加藤会長理事

私の生協人生

 今日は岩手における県連を中心とした、生協運動の実際を報告させていただきます。

 私は一九六〇年に北海道から岩手大学・林学科に入学しましたが、入学と同時に「六〇年安保闘争」という、わが国の歴史上も特筆される国民的大運動に遭遇し、熱心にこの運動にも参加しました。しかし、結果的に日米安保条約は自然成立という形で決まりました。その後、安保闘争の「敗北感・挫折感」が社会を覆った世相がありましたが、一方において、これだけ盛り上がった国民的運動の弱点は、やはり戦後民主主義がまだ十年余の歴史しかなく、日本における本当の民主主義、憲法に明記された「主権在民の確立」、本当の「民主主義革命」が必要であるという運動も再出発する時代でした。

 当時まだ岩手大学には生協がなく、六〇年七月ごろから大学生協設立運動が盛り上がり、秋には学生と教職員が一緒に発起人会が作られ、六一年五月「岩手大学生協」を創立しましたが、それまで生協設立運動をリードしていた先輩が学業に励むと言うことになり、二年生だった私が学生の中心になって、設立後間もない大学生協の実務や運営に没頭しました。

 岸首相に代わった池田内閣は「所得倍増計画」を打ち上げ、十年間で国民所得を二倍にするという、いわゆる「高度経済成長政策」を打ち出しました。確かに企業の業績や賃金も上がりましたが、物価上昇も激しくインフレが続きました。しかし、タイムラグがあり学生への仕送りやアルバイト料はまだ上がらず、学生生活は厳しいものがあり、学内の厚生施設としての生協への期待は大きく、大学の協力も在り組合員の利用結集によって生協事業は急速に拡大しました。

 当時の大学生協連は、こうした組合員のニーズに応える事業の拡充と教育環境整備運動、学問の自由・大学の自治、消費者運動や平和・民主主義の運動の旗を高く掲げ、安保闘争の流れを絶やさず、運動と事業の一体的展開を基本に位置づけていました。

 私はその後、岩手大学生協を「協同組合として」発展させることにこだわりつつ、六九年には、大学周辺に「盛岡牛乳を安く飲む会」という共同購入組織を立ち上げ、その秋には「盛岡市民生協」の創立をみんなで進めました。当時、大学生協が支援した市民生協運動が全国的にも日本の新しい生協運動の歴史を切り開いてきたことは、皆さんもご存知のとおりです。市民生協を二十年間進め、その間、県内生協の合併を提唱し、十年近い論議を積み重ね、一九九〇年、六つの地域生協が一つになり「いわて生協」ができました。その後、九五年にはみやぎ生協・山形共立社・いわて生協が力を合わせて「コープ東北サンネット」を結成し、病気になるまで七年間、理事長を務めました。

 このように、私は現在の県連会長理事(半常勤)を含めて、一九歳から六八歳の今まで、半世紀近く生協運動を愛し、誇りを持って、悩みながらも組合員・常勤者の皆さん、取引事業者や地域の多くの方々のサポートで、まずまず順調に生協人生を歩んでくることができました。

協同組合運動としての生協にこだわって

 先ほど申し上げましたように、当時の全国の大学生協は「学生運動」としての性格が強い状況で、教職員の組合員組織率はきわめて低く、ICAなどの協同組合理念・原則などにもほとんど関心がなかった状況でした。私は大学生協を始めた頃、佐藤正先生(農業経済学者・岩大生協の学識理事)の勧めもあり、「一楽照雄先生」の著書を何冊か読み、お会いする機会もできました。一楽先生はご存知の方も有られるでしょうが、全中から農林中央金庫に出られて常務理事をされ、その後「協同組合経営研究所」を立ち上げ理事長を長年務められた方です。日本有機農業研究会をつくられ、長い間会長をなされて、「日本の協同組合はいかにあるべきか」「日本農業のあるべき姿は」を問い続け、「一楽天皇」とも呼ばれた理論家・実践家であり、農協・漁協・生協の中に大きな影響を与えた偉大な方でした。

 こうした関係もあり、岩手大学生協は「協同組合らしい生協」として、ICA理念や原則も学びながら、学生だけでなくむしろ長年組合員であり続ける教職員の組織化やそのニーズの事業化に務め、教職員組合・学生自治会・学寮自治会などと連帯して学内民主化に独自の役割を求めていました。

 また、地域生協づくりも、当時、大学生協が直接支援し、創立総会もが大学生協関係者を中心にわずかの人々で開催する状況でしたが、私たちは「牛乳の共同購入組織」をつくり、その中で生協とは、協同組合の歴史とは、コープ商品とは、などの学習を毎月の班長会議等で行い、この組織の剰余金をみんなで分け合いながら、出資金をあらたに集めるという形で準備し、創立総会は二千名の賛同者のうち六百五十名の実出席で開催しました。

 市民生協の班長会議にも一楽先生をお呼びして、何回かの学習会を開きましたが、その中のエピソードをご紹介したいと思います。前日来盛された先生は、私どもの創立間もない活動を大変評価していただきましたが、学習会では一変し「皆さんは加藤専務のような危なっかしい人物をいつまで専務にするつもりか。昨日聞いたら、出資金に定期預金利息ぐらいの配当金を予定すると言って、増資を呼びかけていますが、皆さんは配当金を目的に出資・増資されているのですか。それでは金儲けを目的にする株式会社の株を買うと同じではないですか。皆さんは組合員の願いを少しでも実現するために、せっかく創った生協をしっかり支えるために、工面しながらお金を出しているのではないですか。配当金で出資を誘うような専務は生協運動のリーダーとしては失格ではないですか。生協の主人公は組合員なのですから、早くこうした専務を辞めさせる力を待たなければなりません。」私は自分の顔が赤らみ、それまで経験したことのないぐらいの恥ずかしさと反省をしたことをいつも思い出して、その後の生協を進めてきました。

 一楽先生の協同組合運動や環境問題に対する理念・ICAにおける様々な議論や決定を学び、できるだけこうした理念・原則に忠実な生協運動、とりわけ一九九五年の「協同組合のアイデンティティに関するICA声明」をいかに実践するかを、絶えず重視してきたつもりです。

 こうした私なりの生協運動の実践から考えても、現在の日本生協連の路線や政策に対して、大きな危機感を持ってまいりました。今、日本の生協はこれまで経験したことがない「転換点」「曲がり角」を進んでいますが、全国の生協人がどれだけその「実感」をお持ちなのでしょうか。最近の日生協総会において、私はいくたびか「ICA声明のアイデンティティ」に立ち返って、今日の「貧困と格差」「市場競争原理」「規制緩和」がもたらす社会状況における「生協運動のミッション」の明確化を求めて発言を繰り返して参りましたが、こうした要求や提言は完全に無視された状況です。それでよいのでしょうか。

 さて、これから報告します岩手の生協運動は、こうした問題意識の下に、「それぞれの生協はどういう存在意義があり、どういう使命を持っているのか」を問いかけ続け、「会員生協がこうしたテーマを深めつつ、その事業と運動を一体的に展開する上で、県連はいかなる機能を果たすのか」を模索してきた報告であります。そして、県内生協全体として、「今日の社会における協同組合の意義と使命は何か」「地域社会において岩手の生協はどういう役割を果たしているのか」を組合員・常勤者が問い続け、地域社会からの評価が、自らの評価とどのくらいの差異や距離を持っているのかを話し合ってきました。

県連加入生協の現状と中期計画づくり

 岩手県連は一九六六年七月に設立しました。岩手大学生協が設立して五年、私が常勤専務になった頃でしたが、学校生協、県庁生協など戦後まもなく発足した生協に加え、設立間もない労済生協・医療生協などと一緒に私も設立に加わりました。初代会長は当時の県庁生協の理事長の方で、彼はその後、副知事・知事・衆議院議員などを務めましたが、協同組合に対する正しい知識があり、私は大変お世話になりましたが、県行政と生協連との信頼関係がその後も継続しているのには、その方、中村直氏の影響があったと思います。

 現在の県連加入生協は、いわて生協・生活クラブの地域生協、学校・県庁・大学(二生協)・市役所生協(四生協)の職域生協、盛岡医療生協、労済生協のほか、全国でも珍しい岩手県信用生協、全国唯一のみやこ映画生協があり、JA花巻を加えて十五会員になっています。

 信用生協は「多重債務」問題に取り組み、三十五すべての市町村から「預託金」を預かり、金融機関からこれを担保に協調融資を受け、また、県弁護士会とも力を合わせて極めて有意義な活動をしております。私はこうした実績を踏まえて日生協に「信用生協」の全国的な設立運動をすべきであると繰り返し要求してきましたが、銀行協会やサラ金業界に気兼ねする厚労省に真正面から交渉したり要請することさえしておりません。この信用生協の多重債務者救済の取り組みも二〇周年を数えております。

 みやこ映画生協は、宮古市など三陸沿岸の町には一館の映画館もなくなる中で、市民有志による自主映画上映が取り組まれていました。いわて生協が十年前に人口五万人弱の宮古市に「DORA」という二千三百坪のショッピングセンターを建設する時、常設の映画館を是非つくってほしいという、こうした市民の要請があり、いわて生協とは別に市民自身が「出資・利用・運営参加」する「映画生協」の設立を提案しました。私は全国初の映画生協の設立認可を渋る岩手県や厚生省を説得して、二スクリーンの常設映画館、何よりも市民の総合芸術としての映画への理解や市民自身の生活文化向上に貢献する「文化運動体」としての生協を目指しました。

 二〇〇七年度期末のトータル数値は(JA除く)、組合員五十万百七名・出資金百二十億六千四百万円・事業高五百四十一億円・地域生協の県民組織率は三八・四%となっています。

 私は大学生協、盛岡市民生協、いわて生協においても県連においても、「生協は中期計画づくりの運動である」ということを訴え、実践してきました。この考え方は、協同組合運動は組合員と常勤者の協同であり、こうした人々の「自主性・自発性」が発揮されたとき、協同の力が一番発揮されると言うものです。すなわち、日常の活動も仕事も、その目的や意義・価値がわかり、みんなが同じ方向を見ながら、お互いに励ましあいサポートする中で取り組むことが、やり甲斐も持て達成の可能性が高いし、充実感も味わえるに違いない。

 そのためには、トップダウンや上意下達、指示命令やマニュアルで進めるのではなく、どうすればみんなのベクトルが合わせることができるか、より自発性・自主性を発揮できるか、ここに協同組合運動のエネルギーが存在するという考え方です。

 生協は年度ごとの目標や方針・事業計画を持って活動をしていますが、せめて三年間ぐらいの計画や数値でないと、一年間はすぐ終わってしまいます。そこで、三年~五年ぐらいの中期計画をみんなで作ることを「運動として」展開することが必要です。できるだけ多くの組合員や常勤者が参加して、「組合員の経済的・社会的・文化的ニーズと願い」がどこにあるのか、調査やアンケート・話し合いの中で、具体的にそれらを掘り下げる作業、こうした組合員の暮らしの実態、くらしの基盤である地域社会の実態、それらを取り巻く政治経済の「原因と結果」などを掘り下げます。また、生協の事業や経営の構造的な強みと弱み、競争店舗などの強みと弱みの分析を組合員の立場から分析します。さらには、ICA原則や価値などと実際のわが生協の到達点分析、外部の各界の人々からの生協への評価や苦言なども重視していくことが大切です。

 こうして、三~五後の目標や到達したいレベル、それをいかなる方策で取り組んでいくのか、その考え方と手段、具体的アプローチの道筋を計画します。重要なのは言葉だけではなくそれを「具体的なイメージ」としてみんなが共有化できるか、そして数値として組み立て損益・財務の年度計画にまとめ上げていきます。

 この中期計画は、トップが何年先まで見通せるかで長さが決まりますが、せめて三年ぐらいの計画が必要でしょう。こうした作業は少なくても半年ぐらいはかかりますが、その取り組みの中で、組合員活動家や常勤者のベクトルが次第にあってきますので、そのベクトルに合わせて、実際の活動や仕事がより自発的に自主的に展開される可能性が高まります。 岩手県連のこれまでの中期計画は次のようなものでした。年度が続かないときは無理をせず、おおよそ合意ができたときからスタートしています。

第一次中期計画(一九八一~一九八五年度) 県内生協を全県的に発展させる基盤づくり、特に地域生協の設立支援。
第二次中期計画(一九八七~一九八九年度) 地域生協の連帯・統合と全生協の健全経営の確立。 (九〇年、六生協合併によるいわて生協設立)
第三次中期計画(一九九一~一九九三年度) 組合員のくらしの変化に対応した新しい生協事業の強化・確立。
第四次中期計画(一九九六~二〇〇〇年度) 二十一世紀を展望し、地域社会に貢献する生協づくり。
第五次中期計画(二〇〇一~二〇〇四年度) 四つの危機(くらし・地域・平和・経営)に真正面から取り組む生協、協同組合のアイデンティティとミッションを深め、常勤者のマネジメント改革で組織・事業・経営の質的強化。(地域に根ざし役立ち・信用され・サポートされる生協)
第六次中期計画(二〇〇五~二〇〇九年度) 四つの危機に対応できる岩手の生協の総路線の確立、協同組合としての主体形成に力を注ぎ、組合員と地域を守る大衆運動の展開 (新しい貧困・格差の拡大、市場原理主義への抵抗、改めて運動と事業の一体的展開、ICA理念・価値・原則の忠実な実践推進)

岩手の生協運動の総路線

 第五次中期計画づくりの中で、「二十一世紀」の議論を深めました。二十世紀の半分以上は「戦争の世紀」でしたから、「戦争の二十世紀から平和の二十一世紀へ」が世界中の人々の願いでした。しかし、二十世紀末のソ連や東欧諸国の「社会主義」の崩壊によって、アメリカ一極、資本主義(自由主義)一極体制の中で、「九・一一テロ」が発生しました。アメリカの覇権主義・単独主義が国連を無視する形で、アフガン・イラクへの侵略戦争が強行され、かつてないイラク戦争反対を叫ぶ「平和の二十一世紀」を願う人々の怒りが広がりました。

 アメリカの覇権主義・軍産複合・金融(カジノ)資本主義が急速に支配的な力を増す中で、日本では小泉・竹中体制で「アメリカの新自由主義(カジノ資本主義)を日本でも推進する」路線が急速に進みました。「市場原理主義」に基づく「規制緩和・構造改革」「官から民へ・自己責任」がマスコミも動員して日本中を席巻する勢いでした。

 私たちは、こうした内外の急激な政治的・経済的変化をいかに捉えるべきかを議論する中で、どのような「視座」で分析するかを深めました。その第一は「協同組合運動の視座」でなければならないということでした。特に一九九五年の「協同組合のアイデンティティに関するICAメッセージ」で明記された「価値」、歴史的に重視してきた「公正・公平・平等・人権・民主主義・平和」などのモノサシで、こうした「グローバリゼーション」といわれる変化を深めることです。

 この視座からは、ワーキングプアといわれる貧困層の増大、それを急速に拡大した労働法制の規制緩和、輸出産業や金融・投機で稼ぐ「勝ち組」と彼らへ優遇税制、一方での社会保障制度の連続的改悪や増税、第一次産業の衰退や中小零細企業や地方経済の衰退、「三位一体」の名による地方切捨てなどによる「格差拡大」などの「政策結果」が明らかになりました。また、「ブッシュ・小泉関係」によるイラク戦争支持と自衛隊派遣、小泉首相の靖国参拝に刺激された「靖国派」の影響増大など、それまでの「有事法制」「新ガイドライン法」を実践する自衛隊とアメリカ軍との一体化など、平和に対する危機も急速に広がりました。

 もう一つの視座は、組合員のくらしの変化・悪化の実際を深め、そのくらしの「基盤」である地域社会・地域経済の危機的変化、地域の人々のコミュニティの崩壊状況、諸団体・諸運動組織からの生協への期待と要求は何か、という視座から分析することです。

 私たちはこうした全体的状況を分析し、「四つ(くらし・地域・平和・経営)の危機」として捉え、この危機に真正面から取り組む生協運動、そのための「主体形成」をこの中期計画の中心的課題に位置づけました。

 第一の柱は、「地産地消・暮らし防衛・平和・子育て・福祉・環境・文化・民主主義」など、多くの組合員の「経済的・社会的・文化的ニーズと願い」を実現する運動と事業の一体的展開。わが国の七〇~八〇年代の生協運動の飛躍的発展は、家庭班を中心にした組合員の「出資・利用・運営参加」の強化、くらしを取り巻く諸問題を学習し、広い意味での組合員教育の重視した「大衆運動」の展開でした。新しい貧困と格差社会の広がり、地域社会・経済の変化と悪化の中で、今こそこうした歴史を学び、大衆的運動に積極的に取り組むことを生協運動のミッションとして位置づけることです。そして、その実践は自治体を含む地域の諸団体、諸運動との連帯・ネットワークにより、より幅広い運動として展開するという路線です。

 第二の柱はこうした生協運動の着実な前進を保障する「主体形成」です。これは組合員の生協に対する意識や理解を分析する中で、「核」「先進部分」を重視し、この主体を少しずつひろげる取り組みです。組合員の理解や利用・問題意識の標準分布は下記の絵のようになります。(図Ⅰ)


 これは常勤者のそれも同様であり、あらゆるものごとを有りのままに捉え、「先進に依拠し次第に中間層へ影響を及ぼし、全体の底上げを図る」上で、重要な主体形成論と言えるでしょう。

 第三の柱は常勤者の主体形成です。私は長い間生協のトップマネジャーとして頑張ってきたつもりでしたが、一九九四年頃、藤田英夫先生の「組織改革研究会」に参加し、先生の「人を人として」の著書を精読する中で、それまでのマネジメントの間違いや弱さを痛感し、大いに反省しました。この研究会はその後「生協版」として展開され、滋賀の皆さんも参加されたと思いますが、いわて生協では百人ぐらいの幹部・上級職が参加し、おそらく延べ三千万円ぐらいの経費をかけました。そして、「いわて生協・常勤者仕事改革」が実践され、いわて生協の組織・運動・事業・経営の構造改革と確実な発展が図られました。

 「仕事改革」の中身は、(1)「意識改革」=常勤者の仕事は何のために存在するか、それは組合員に喜ばれるため、地球環境への負荷をできるだけ減らすためにのみ存在する。その仕事が毎日、毎月、毎年継続するのは、そのレベルを昨日より今日、先月より今月、去年より今年と、少しずつ引き上げるためである。(2)「マネジメント改革」=モノとカネは徹底して管理するが、「人間」は管理しない。部下の成長は上長の仕事に対する熱い思いと部下を成長させたいという強い意志の結果である。指示命令ではなく部下の自主性、チームによる団結こそ力である。(3)「MD(マーチャンダイジング)改革」=MD(商品に関する総合的な政策)こそ、組合員と常勤者をつなぐ接点であり、その目的は「数値達成のため」ではなく、やはり組合員に喜ばれ、環境負荷を減らすことが目的である。

 こうした「仕事改革」を常勤者の「血と肉」にすることこそ、私のトップとしての最大の仕事である、という反省であり決意でした。

 第四の柱はもう一つの主体形成ともいうべき「協同組合のロマン・理念・九五年ICAメッセージ」を学び確信を持つ組合員・常勤者の育成です。「新自由主義・市場競争原理」は明らかなイデオロギーとして蔓延しており、私たち協同組合人もその論理に相当程度に「洗脳」され、スーパーとの競争に負けることへの異常な恐怖感、経営強化・発展のためには利潤目的の私企業の模倣が優先され、組合員を「顧客」として捉え、低価格での顧客吸引セールに明け暮れ、常勤者は予算達成こそ最大の仕事・責任という状況に陥ります。組合員組織(化)も、家庭班や基礎運営組織確立の困難性に負けて、供給高達成の手段としての「仲間づくり」、請負や派遣を最大限利用した個配事業の拡大で損益を合わせる経営がもてはやされてきました。

 こうした時代において、「協同組合運動」の歴史やロマン・理念を繰り返して学び、特に一九九五年の「ICA声明」で確認された「定義」「価値」「原則」を深く学び実践することが、今こそ求められているのではないでしょうか。

 個人も組織も厳しい環境に投げ出されると、「上向き・内向き・後向き」に陥ってしまいます。強いもの・大きなもの・権力や上部機関・規模の大きなものなどの動きや主張が気になり、ついつい「上向き」発想が強まります。また、負け組になりたくない、厳しい自己責任が問われる中で他人やほかの組織や運動など構っておれない、地域がどうなろうとまずは自分たちの組織・経営が大事だ!などという「内向き」志向が力を持ってきます。さらに、先が見えない時代、激しい競争時代に、新しい発想や展望が見つけ難くなり、無難にこれまでの成功事例、過去の延長線上の方針にこだわり、未来志向や展望を切り開くことを避けて「後向き」な発想が強まります。

 私たちはこうした傾向と戦い「下向き・外向き・前向き」な発想を目指し、組織をこうした体質に変えることが、トップの責任であるということを、県連理事会やあらゆるところで強調してきました。厳しいくらしの組合員・生協現場で働く悪い労働条件の仲間、部下や組合員の思いと願いなど、「下向き」の状況把握と思いやり。地域で働く生産者や中小零細企業・そこで働く労働者、地域での諸団体・諸運動の状況や生協運動への期待や要求など、「外向き」発想でのネットワークや連帯・共生の可能性の模索。グローバリゼーションの中で「もう一つの世界」を求める人々の運動や二十一世紀を展望する世界的な歴史の流れ、中期計画運動への取り組みや、協同組合としてのあるべき・なりたい姿、生協のアイデンティティ・ミッションからの「前向き」発想など、今私たちの発想の転換が求められているのではないでしょうか。

岩手の生協・県連のネットワーク活動

 「地域に根ざし役立ち・信用され・サポートされる生協」をめざす岩手の生協の、実際の地域でのネットワーク・連帯活動を紹介したいと思います。

  「協同組合連帯」では、歴史のある「提携協議会」のほか、「地産地消運動を促進する岩手県協同組合協議会」を四年前に立ち上げ、生協県連が事務局を担当し私が会長を務めております。地方での「地産地消まつり」や「学校給食での県産品普及」(岩手県では重量比で五二%になっている)、地産地消運動の理念・目的などを普及する「セミナー・シンポの開催」などが展開されています。また、「協同組合運動研究会」を異種協同組合の個人参加でつくり(いわて生協が事務局・私が会長)、理論研究も進めております。なお、生協だけでは県連主催の「生協学校」(十~十五年ぐらいの中堅常勤者)「協同組合講座」(組合員理事・幹部常勤者)を年二回開催し、協同組合理論や今日の社会における生協のアイデンティティ・ミッションを出し合う取り組みを強めております。

  大衆運動の面では、かつての「新ガイドライン法」に反対する取り組みに中でつくられた十一団体で「平和憲法を守る県民懇談会」(社民系・共産系・市民団体など)が継続して県内の平和運動を推進し、この組織が幹事団体となって「平和憲法・九条を守る岩手の会」という幅広い組織を四年前に立ち上げ、「九条を守る県民過半数(六〇万筆)署名」運動を展開し、目下、二七万筆を数えております。また、「被爆六〇周年・原爆と戦争展」を県内各市で開きましたが、私たちがよびかけて、「原水協・原水禁」も加わった実行委員会がつくられました。憲法誕生の真実「日本の青空」の上映運動も、県内の一市を除く全てで開き八千人を超える人々が鑑賞しましました。こうした一連の平和運動の事務局は生協県連と県消団連(生協が中心)が事務局を担当しておりますが、生協が「市民組織」としてのミッションを果たしている事例といえるでしょう。

  このほか、「WTO農業協定改正・コメの自由化反対」などを願う「岩手コメネット」という運動を十年ぐらい続けてきましたが、この三月、「県食健連」と合同し、新しく「食料・農業・地域を守る県民ネットワーク」という組織をつくり、生産者・消費者・労働者などの連帯を強めてきております。社会保障制度の連続的改悪が進む中で、生協・労働組合・社会保障推進協議会などが共同して「社会保障連続セミナー」を年六回ほど開きましたが、「後期高齢者医療制度」が社会問題化する中で、昨年このセミナーに参加した組合員から、生協の先見性を評価する声が強く出されています。

  そのほか、産直や地場産品の開発普及、自治体との連帯・提携も進み、知事や県議会各派との定例懇談会、など生協への信頼と評価は年々高まってきております。最近では、原油異常高騰に対応する「消費者・生産者・事業者」の提携運動も展開され、集会・デモ(八百名)、緊急十万名国会請願署名、県議会と全ての市町村議会への共同請願が可決されています。こうした生協の実績は、私たちが長年「政党とは等距離外交」を実践してきたからであり、生協としての選挙運動などはしないできたことの評価でもあります。

協同組合としての生協理論の確立を

私はここ十数年、日生協総会や地連運営委員会などで、一九九五年の「協同組合に関するICAメッセージ」を、日生協がリードして全国の全ての県連・生協が今こそ学び深める運動を展開してほしいと繰り返し要望してきました。かつて、一九九二年のICA東京大会開催の頃は「協同組合の基本的価値」に関する一大学習運動が日生協主導の下に展開されました。そして、一九九五年のICA大会でこのメッセージが決定した際には、一定の論議と出版などがありました。しかし、一九九六年からの「全国生協第七次中期計画」(五ヵ年)により、全国にSSMチェーンを急速に展開し、日生協がコープ商品を中心とした「卸事業体」に特化するという路線が決まり、それが無残にも失敗して大生協の経営危機が表面化し、それ以降の「経営構造改革」と「組合員の運動は活動と呼ぶ」「グローバリゼーション礼賛の二十一世紀ビジョン」路線が定着する中で、このICAメッセージに関する議論も学習もほとんど軽視され、私の先ほどの要請も無視される状況がつづいています。

  私は岩手県の生協の実践を通じて、日生協路線とは異なっても、協同組合運動としての路線を追い求めてきました。特に、組合員のくらし・生協経営・地域社会をめぐる厳しい情勢を「協同組合の視座」から分析し、生協の「アイデンティティとは、今日的ミッションは何か」を求めてきました。

  その中では、ICA原則の第五原則「教育・研修と広報活動の促進」、第六原則「協同組合間の協同」、第七原則「地域社会への配慮」が今こそ全面的に実践されることの重要性を強調してきました。

  先ほども申し上げたように、今日の新自由主義・市場原理主義などはイデオロギーとして、私たち組合員も常勤者もマスコミなどの影響もあり、かなり重症に「洗脳」されているのではないでしょうか。生協人がこのマインドコントロールから脱却して、協同組合のロマン取り戻し、その健全で建設的な前進を図るためには、このICAメッセージの立場に立ちきる努力が不可欠ではないでしょうか。

  この点での「組合員・常勤者・地域のオピニオンリーダー・若者などに対する協同組合に関する教育」がなければ、生協も利潤を目的にする私企業と同一視されてしまいます。

  また、生協の事業連合も一九六六年に決まった第六原則の「独占資本・多国籍資本と有効に闘うための協同組合間協同」として位置づけなければその存在価値も薄れます。さらには、繰り返しのべてきました「地域に根ざし役立ち・信用され・サポートされる生協」こそ、厳しい競争状況の中で生協の存続も難しいのではないでしょうか。

  滋賀県の生協の皆さんの一層のご活躍を願いながら、私の話を終えさせていただきます。

御静聴ありがとうございました。