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特集『賀川豊彦の友愛互助の精神-その今日的意義-』

滋賀の生協 No.149(2009.10.15)
二〇〇九年度滋賀県生活協同組合連合会 会員生協役職員研修会
『賀川豊彦の友愛互助の精神 ―その今日的意義―』
コープこうべ協同学苑学苑長
神戸大学名誉教授
前コープこうべ理事長

野尻 武敏氏

 生協の父と呼ばれる賀川豊彦が神戸の貧しい地域に身を投じて百年になります。その記念事業である「賀川豊彦献身百年」事業の一環として、賀川先生が身命を捧げた各種の社会運動、ことに生協運動について、その基本精神とその今日的な意義を学びます。



   はじめに 賀川豊彦献身百年

 昨年の秋から「百年に一回の金融危機」と言われています。

 一九二七年に「金融恐慌」がありました。それから二年後「世界恐慌」がやってきて、「第二次世界大戦」に入っていく。その大変な時期に賀川先生は活動をなさっておりました。

 最近、賀川先生を見直す動きが出てきております。

 昨年暮れから「賀川豊彦献身百年」記念事業が始まりました。賀川先生が、神戸のスラム街へ入って献身的な活動を開始したのが、一九〇九年のクリスマス・イブの日でした。東京と、賀川先生が生まれた神戸、育った徳島の三ヵ所で記念事業が開催されています。

 この記念事業の効果もありますけれども、賀川先生を見直すきっかけになっているは、今の時代が賀川先生の生きた時代と似たところが出てきているのも、その一つだと思います。

   一、忘れられた巨人、賀川豊彦

(一)大宅壮一の賀川豊彦評

 一九三〇年前後、中学生だった僕も賀川豊彦の名前は知っていました。その頃は、賀川先生を知らない人は稀でした。それが今日では、一般には知っている人が稀です。「忘れられた巨人」となっています。

 一九六〇年、賀川先生が亡くなった年に、評論家・大宅壮一は「噫々(ああ)賀川先生」という論評で、こう言っています。

 「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族にもっとも大きな影響を与えた人物ベストテンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベストスリーに入るかも知れない」。「西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木稀典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹などと、思いつくままに名前を挙げてみても、この人たちの仕事の範囲はそう広くない。そこへいくと、我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面は言うまでもなく、現代文化のあらゆる分野にその影響が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名の付くものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると言っても決して言い過ぎではない。近代日本を代表する人物として、自信と誇りを持って世界に推挙しうる者を一人挙げよということになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名を挙げるであろう」。「かつて日本に出たことはなく、今後とも再生産不可能と思われる人物。それが賀川豊彦先生である」


(二)巨人、賀川(一八八八―一九六〇年)
―その多面的活動


 賀川先生を有名にしたのは、一九二〇年に出版された最初の小説『死線を越えて』です。貧民街での「救貧活動」に入っていく心の遍歴を書いた自伝小説で、映画にもなりました。これがベストセラーになり、入った印税だけで今のお金で十五億円ぐらいあるといいます。その金を全て社会運動につぎ込んだ。これは奥さんもえらかったと思いますよ。それから程なくして出した『一粒の麦』も非常によく売れました。

 最近、「家の光協会」が賀川先生の小説『乳と蜜の流るゝ郷』の復刻版を出しました。この小説は、農民組合の活動によって、日本の農村を理想的な郷(さと)にしようという、一九三二、三年頃の『家の光』に連載された小説です。これによって五十万部だった『家の光』の発行部数が二年のうちに倍増したというのです。もちろん牧師である賀川先生の根底にはキリスト教があるのですが、作家としてまず名が売れたわけです。

 それから詩人でもありました。最初に出した『涙の二等分』という詩集を、与謝野晶子は非常に高く評価しております。

 それからあらゆる分野の学問をやっている。宗教、神学、歴史、社会学、経済学、政治学、自然科学系の諸科学、特に生物学が得意でしたね。アメリカに留学した時も、神学だけでなく、生物学から物理学、それも量子力学まで研究しています。

 そして、各種の社会運動です。労働組合運動、協同組合運動、農民組合運動、普通選挙権運動、平和運動などの先頭に立っています。さらに、国際的な世界連邦運動も展開しています。

 そして、その間に書いている本が三百数十冊。昼は活動をして、おそらく夜中か、あるいは外国に行く船の中で書くか、そういうことをやられたのでしょう。超人的というほかはありません。


(三)国内より海外に広く知られた賀川
―その著『Brotherhood Economics』をめぐって


 賀川先生は、日本の国内より海外に名前が知られた人です。牧師ですから、平和問題やキリスト教について講演をなさる。北米、中米、南米、ヨーロッパ各地、オセアニア、中近東からアジア諸地域など、アフリカを除けば世界をほとんど回っております。

 賀川先生の社会思想が最もよくまとまっている本の一つが『Brotherhood Economics』です。日本語には翻訳されていなかったので、私と東京の賀川記念館の方々と一緒に翻訳してコープ出版から出ております。通常の経済学よりもずっと範囲が広く、議論は議会の編成から世界連邦まで及んでおりますから、日本語訳の書名は『友愛の政治経済学』としました。

 賀川先生は、一九三五年にアメリカの神学校だけでなく、大恐慌下に大統領になったルーズベルトからも招かれ、「来たるべき社会のあり方」について講演を頼まれたのです。一九三五年から三六年にかけて、アメリカ各地で五百回の講演をなさっている。それに集まったアメリカ人の聴衆は百万人を超えたと言われております。ロサンゼルスには「カガワストリート」という道路さえある。第二次世界大戦が終わった時、アメリカの大部分の人は「賀川先生が日本の総理になるのではないか」と思ったそうです。

 この本は、アメリカでの話をまとめたものです。一九三六年にアメリカで出版され、翌年イギリスで出版。次々に十七ヵ国語、ヨーロッパの言葉は全て翻訳され、さらに、ヘブライ語、ヒンズー語、中国語にも翻訳されました。今日まで、ただ日本語にだけならなかったのです。

 第一次世界大戦後、「国際連盟」ができました。この国際連盟で、特に二人の日本人が活躍をしている。一人は新渡戸稲造。もう一人が賀川先生です。

 賀川先生は、シュバイツァー、ガンジーと並び「二〇世紀の世界三聖人」の一人とも言われ、ノーベル文学賞と平和賞の候補にのぼったこともあります。それからインドの詩人タゴールや、あのアインシュタインたちとロンドンで「平和宣言」をした事もあるのです。

 賀川先生は、世界に最もよく知られた日本人の一人とも言われています。

   二、賀川の社会活動―「第三の道」(協同組合主義)

(一)「救貧」から「防貧」(社会体制改革)へ


近所の子どもたちと
 賀川先生は神戸で生まれます。お父さんは徳島の方ですが、神戸で海運業を営んでいた。賀川先生は、その神戸のおめかけさんの子どもです。母親は美人で教養のある人だったそうです。多分、しっかりした士族の家の娘だったのだろうと言われています。賀川先生は五人兄弟です。正妻には子どもがいなかった。

 ところが、四歳の時に両親が亡くなり、徳島の本妻に引き取られます。当然、良い顔はされない。賀川先生の少年期の生活環境は良いものではなかったようです。

 ある意味、それが幸いしたのかも知れません。住まいは、昔からの徳島の大庄屋の豪邸だったそうですが、賀川先生の心を満たすものはない。そのうちに、徳島中学の時に英語の勉強にローガンとマヤスという、二人のアメリカ人牧師のところに出入りするようになった。そして「英語の勉強に一番良いのは暗唱することだ」と教えられて、聖書を与えられました。
 そして、一六歳の時に洗礼を受けることになります。ある時、牧師さんに「祈りをしていますか」と聞かれて、「はい」と答えると、「どこで祈りをしているか」と聞かれ、「布団の中で」と言ったそうです。本家は、大の「耶蘇教(やそきょう)嫌い」だったから布団の中でお祈りをしていたみたいです。すると、牧師に「あなたは臆病だね」と言われた。当時の男の子は「臆病」と言われることを最も恥としていたのですね。そこで、思い切って一生を決定する行動に出たのです。受洗したわけです。

 中学を出ると、明治学院へ行きました。明治学院はミッション系の学校で神学部があるのです。ところが、肺結核に罹り「余命はもう数年」と言われた。そこで「余命を人のために捧げよう」と決意し、自ら荷車をひいて神戸の貧民街だった「新川地区」に入っていったのです。

 そこで五年ほど社会活動をやることになりますが、ここでの社会活動は慈善的な活動でした。餓えた人に食を与え、篤志家の先生や看護婦さんに頼んで医療サービスをする。宿のない人には自分の住んでいる「幽霊が出る」という安いあばら家に泊まらせた。

 そして、一九一四年にアメリカのプリンストン大学へ留学します。生物学の最初の授業の時に「これまで進化論についてどんな本を読んだか。その内容も書け」と言われた。賀川先生は、普通のアメリカの学生の三倍から四倍の書物の名を書かれ、生物学の先生が驚いたという逸話も残っています。


(二)時代状況
― 戦間期(金融恐慌、大恐慌を中に挟む激動期)



神戸消費組合の建物
 日本に帰国してくるのは一九一七年です。大体、第一次世界大戦の間、アメリカで勉強し、いろいろと実際を見聞きしたことになります。そして、帰ってくると、社会活動の中心が「救貧」から「防貧」に移っていきます。「救貧」とは困った人を助けるということですが、「防貧」は、困った人が出ないような社会をつくることです。つまり、「社会の変革運動」に賀川先生の活動の中心が移っていく。

 まず、「労働組合」運動です。大正のはじめ、日本で初めて近代的な労働組合「友愛会」が鈴木文治たちによってつくられました。鈴木文治も熱心なクリスチャンで、「友愛会」にはキリスト教的な色彩がありました。賀川先生は帰朝後すぐに、その中心リーダーの一人となり、日本で最初の本格的なストライキも指導しています。一九二一年夏の、神戸の川崎、三菱造船所のストライキです。初めての暴力を用いない組織的なストライキです。その時の写真がよく教科書などにも載っていますが、列の先頭を歩いているリーダーの一人が賀川先生です。

 それより先、一九一九年に、当時は購買組合(消費組合)と言っておりますが、初めて地域生協を組織しています。大阪の「共益社」ですが、これは長く続きませんでした。今日まで続いているのは現在の「コープこうべ」です。前身は「神戸購買組合」と「灘購買組合」ですが、ともに賀川先生が「思想的な父」です。

 「灘購買組合」は住吉が発祥の地です。これを始めたのは那須善治という実業家です。台湾や樺太、千島、朝鮮などから大阪へ物資を運ぶ仲買商だったようです。日蓮宗の熱心な信者で、自分も他も共に助かる「自他共助」、そのために命をかける「不惜身命」、これがモットーでした。那須さんは第一次世界大戦末期の好況で、非常に儲けた。しかし、儲けたからといって贅沢をするような人ではなかった。この人の履いている下駄は、歯が磨り減って草履みたいになっていた。ハッピの帯は荒縄だったそうです。四国の方ですけれど、非常に質素な人だったそうです。

 那須さんの住んでいた住吉地区に、平生釟三郎という人がおりました。今で言う「地域コミュニティーづくり」に熱心で、「観音林倶楽部」という一種のサロンをつくり、近所の有志が集まって話し合いをしていたらしい。もともと東京海上火災のお偉方で、ロンドン駐在時に生協の活動もよく見ております。今日の甲南大学や、御影の甲南病院はこの人がつくったものです。

 那須さんも、平生さんのところに出入りしていましたが、ある時「儲けた金を社会の役に立てたい。どう使うのが一番いいだろうか」と相談をした。すると、平生さんが「今、新川地区ですごく活動をしている賀川という若い牧師がいる。あれは良い仕事をしている。あそこへ行って相談したらどうですか」と薦めたそうです。それで、賀川先生に相談に参りましたら、賀川先生は、こう言われたそうです。「慈善事業も悪いことではない。しかし、慈善的な『救貧』は、出来物に膏薬を貼るようなものだ。その出来物は良くなっても、また他の所に出てくる」。だから、「出来物ができない体質を作ることにお金を使ったらどうでしょうか」とね。つまり、「救貧」よりも「防貧」ですね。そうして薦めたのが協同組合です。

 もう一つの「神戸購買組合」は貧民街から始まっています。福井捨一という方がつくりました。この方も実業家で港湾関係の事業をやっていた。市会議員や県会議員もやった人です。心酔する賀川先生に薦められて「神戸購買組合」をつくった。当初は組合員と言っても数百人、従業員は四、五人です。従業員を雇う面接の時に福井さんは「うちは健康な人はいらない。病人が欲しい。購買組合病という病気に罹った病人が欲しいのです」と言ったそうです。

 この二つの購買組合は一九二一年の四月と五月にできました。そして、戦後、合併して「灘神戸生活協同組合」となりますが、一九九一年に創立七〇周年を記念して、「コープこうべ」と改称し今日に至っています。設立当初、組合員は合わせて千人前後、職員も合わせて十数人でした。今、「コープこうべ」の組合員は約百四十万人。世界で最も大きい地域生協の一つです。しかし、この生協では、一貫して賀川思想の「愛と協同」が基本の旗印です。今日たいていの大学にある「大学生協」も、賀川先生が東京で初めて始めたものです。

 賀川先生はその他、「農民運動」「平和運動」「普選運動」「世界連邦運動」等を展開されています。「大恐慌」は回復しないまま、「五・一五事件」「二・二六事件」「満州事変」「日中戦争」と相次ぎ、一九三九年には「第二次世界大戦」が始まる、そうした時代です。賀川先生は、何度も憲兵隊や警察に収監されます。そのときの先生は「あの憲兵や警察官を許してあげてください。彼らは自分が何をしているかわからないのです」と、祈っているのです。そして「監獄でゆっくりする時間が初めてできた。本が読める。」と言っております。

 「生協も世直しの運動として賀川先生が進めたものだ」ということは、我々は忘れてはならない。「運動」なんです。単なる「事業」ではないのです。


(三)賀川の提起した社会体制
―自由資本主義と共産主義・ファシズムの双方の否定
―協同組合主義の「第三の道」


 第一次世界大戦が終わるのが一九一八年。第二次世界大戦が始まるのは一九三九年。その二十一年の「戦間期」が、賀川先生が最も活躍した時代です。

 この間に、「金融恐慌」に続いて一九二九年には「大恐慌」が始まり、先進諸国の失業率は一〇%を超え、一時は三〇%という国も出てきました。「自由資本主義」がすっかり挫折したわけです。「それに変わる新しい社会体制を作ろう」という動きが世界で始まります。世界は激動していました。

 まず、一九一七年、レーニンが革命に成功し、「ソ連共産主義」が始まりました。一九二〇年代には、イタリアでムッソリーニの「ファシズム」が天下をとります。そして、一九三〇年代に入ると、ドイツでヒトラーのナチズムが支配してきます。

 第一次世界大戦で負けたドイツは、民主的なワイマール憲法の下で、保守派の中央党と革新派の社会民主党の連合政府となりますが、ワイマール政府の最も民主的な制度の一つは、首相を国民投票で選ぶことにありました。ところが「大恐慌」に入ると、ドイツの失業率は三〇%にもなった。そうしたなかで、国民投票のたびに政府与党の得票は落ちていき、「政権をとったら完全雇用にする」という公約を掲げた二つの政党が急伸していった。一つは「共産党」、もう一つがヒトラーの「ナチス」です。ナチと言うけれども、あれも社会主義です。掲げたのがNationalsozialismusですから、「国民社会主義」ないしは「国家社会主義」です。これが国民投票のたびに伸びていき、遂に一九三三年の投票で、ナチが共産党の二倍の票を取って第一党になりました。

 こうして大恐慌を背景に、国が計画・管理する体制が相次いで登場してきた。自由資本主義体制への対案です。

 戦間期にはもう一つ、民主制を前提にして、選挙によって社会主義的な福祉政策を推進していこうとする「民主社会主義」が政権の座に着き始めます。ワイマール期のドイツの社会民主党や、戦間期に何度か政権の座に着くイギリスの労働党です。

 ところが賀川先生は、これらの全てに反対でした。「自由資本主義」は人格たる人間が圧殺され、「恐慌」を免れえない体制として、それを拒否します。どちらかと言えば、こうして「社会主義」の側に立ちます。

 さればと言って、「共産主義」「ファシズム」「ナチズム」もダメだとして、これを拒否します。「自分で自分を律する」人格たる人間のあり方に反するからです。「力で政権を握るかもしれないけど、長続きはしないだろう」と言っている。

 さらに、「民主社会主義」も退けられます。民主主義は良いけれど、政府の社会政策に期待する修正的資本主義であり、これもまた人格たる人間のあり方に合するものではない、というのが主な理由です。「人格たる人間がお互いに助け合って社会を編成していくような体制でないとダメだ」というのが、賀川先生の考え方です。

 賀川先生は、これを「協同組合主義」や「協同組合社会主義」、あるいは「人格社会主義」ともおっしゃっています。協同組合を積み重ねていく新しい考え方。大体、七種類の協同組合を考えています。議会の議員も組合員の代表から選ばれる。職能代表のようなものです。組合員だったら周囲のことがわかっているでしょう。そういう人が代表になって選ばれるべきだという考えです。

 「資本主義」でもない。登場してきた、さまざまな形の「社会主義」でもない。「第三の道」を示されたわけです。

 賀川先生のこうした社会構想は、思想史的には、フランスのプルードンなどの「組合社会主義」(サンディカリスム)に属すると見てよいでしょう。フランス語のsyndicat(サンディカ)は英語のsyndicate(シンジケート)、つまり「組合」のことです。

 「サンディカリスム」は、よくバクーニンなどの「アナーキズム」と結び、急進的な「アナルコサンディカリスム」となります。日本では大杉栄などがそうであり、彼は甘粕正彦憲兵大尉に虐殺されます。賀川先生は、これとは違う。アナーキズム(無政府主義)」は退け、漸次的な改革の道を選んでいます。そして、範型としては、よくデンマークやスウェーデンが挙げられています。

 さらに、各国をこのように編成して、世界全体も協同組合的に再編していく「世界連邦」の実現を目指しています。その運動のために世界中を駆け巡ったと言ってもいいですね。だから、日本とやがて戦争になってゆく中国にも、賀川先生を非常に尊敬する人がいました。

 蒋介石の奥さんの宋美齢は、浙江財閥の娘さんでクリスチャンでしたが、この人が「日本人は憎い。皆殺しにしたい。しかし皆殺しはできない。日本人の中に賀川という人がいるから」と言ったというのです。あの戦争の中で、中国にも賀川先生の信奉者がいたということです。


   三、賀川の社会構想―友愛互助の精神

(一)賀川の神学
―そのキリスト教信仰と実践活動


 賀川先生の社会構想の基本は「相愛互助の精神」ですが、この精神は何よりもキリスト教からきています。

 賀川先生はプロテスタントの牧師です。どの宗派に属するかは、いろいろと聞いてみましたが、はっきり分かりません。ご自身、「イエス団」という組織をつくっていました。

 しかし、中学生の賀川先生をキリスト教に導いたのは、英語の先生をしていたアメリカの牧師さんです。この方は「プレズピテリアン」(長老派)だったようです。だから、その流れが一番強いのではないかと、私は思います。だが、賀川先生ご自身は、排他的ではなく、カトリックの「フランシスコ会」の第三会員でもあったと聞きました。

 いずれにしても、賀川先生のキリスト教信仰は、きわめて行動的な信仰でした。私たちが邦訳した本でも、一番初めに出てくるのが「主よ、主よと言う人が救われるのではない。主のみ旨を行うものが救われる」という聖書の言葉です。「主のみ旨を行う」とは、キリストに倣うということです。キリストは、人類の救いのために自らの命を捧げて十字架につけられる。「それに倣う」というのが賀川先生の基本です。信仰を「個人の信条」の問題とするクリスチャンでは「キリスト教の半身不随」だ、と言っています。行動が伴わなければダメだというわけです。

 さらに、キリストの教えたのは魂の救いだけでなく、全人的な救いだったことが強調されています。キリスト教のすべての派に共通している「主祷文」という祈りがありますが、その中にも「私たちの日々の糧を与え給え」という言葉があります。これは経済的なことでしょう。キリストの救いというのは、単に心の問題だけではない。生身の人間の全人的な救いのために命を捧げるのがキリスト教信仰だというのが、賀川先生の神学です。


(二)基本となる人格と友愛(兄弟愛)の理念→友愛互助の社会構想
―「人格経済」「人格社会主義」「協同組合主義」


 賀川先生の社会思想を基礎付けている価値原理が二つあります。

 一つは「人格」です。「人格たる人間の価値」です。もう一つは「友愛」です。

 一般に「友愛」と訳される英語はbrotherhoodですが、brotherは友達ですか。兄弟でしょう。フランス革命の旗印も「自由・平等・友愛」と訳されるのが普通ですが、この場合も「友愛」はフランス語ではfraternite'です。fraternite'のfraterはラテン語ですけれど、「兄弟」という意味です。だから、「友愛」は正確な訳ではない。正確には「兄弟愛」です。

 「人格たる人間の特質とは何か」。これは「自分で自己を律する」という「自律」です。単なる自由ではない。「自律」には、「自由と自己責任」が含まれています。

 ところが、「人格」たる人間は「兄弟愛」と結びあいます。「人格」はpersonですが、この言葉はper+se(self)からきたと言われます。perはbyですから、by oneself(自分自身で)ということになります。「自律」です。ところが、perと+sonoからきたという解釈もあります。sonoは響くこと、この場合のperはbyではなくthrough(通して)です。つまり「響き合う」、「心が通い合う」ということです。これは「愛」のことでしょう。「人格」たる人間と「兄弟愛」とは、不即不離の関係にあるわけです。

 みなさんは「なぜ、人間にのみ人権があるのか」考えてみたことございますか。

 精神史的には、これはキリスト教の教えからきています。例えば、「民主主義」はギリシャで始まったと言われるでしょう。確かに「デモクラシー」という言葉とともに、古代ギリシャに始まっています。けれども、奴隷社会のギリシャには「人権」なんて思想はありませんでした。「民主主義」というのは、集団意思の決定方式の一つに過ぎなかったのです。人権思想と結ぶ近代民主主義というのは一八世紀以降、市民革命以降のことです。この背景はキリスト教です。

 つまり、キリスト教ではpersonは人間だけではありません。神もpersonと言います。例えば、キリスト教の神は「三位一体の神」です。英語ではthree persons and one natureと言います。「personである神が、自分の姿に似せて創ったのが人間だ」。これは聖書の「創世記」に出てくる教えです。だから人間もpersonであり、それぞれに絶対の価値を宿すということになり、キリスト教では「もはやギリシャ人もユダヤ人もなく、主人も奴隷もない」ということになります。人がそれぞれに人格である限り、みんな神の姿を映す兄弟です。だから、「人を愛することは神を愛すること、神を愛することは人を愛すること」になります。

 キリスト教では神もperson(s)であることから、わが国ではよくキリスト教の神は「人格神」だと言われます。だが、これは表現矛盾です。神について言われるときは「神格」とでも言うべきでしょう。つまり、「人格」たる人間は、それぞれに「神格」を映すもの、神性を宿すもの、となるはずです。そして、そこから人格たる人間の「尊厳性」の思想が生まれてきます。精神史的には、「人権」の主張も、そこに根ざすと見てよいでしょう。もっとも、義務と切り離されて権利が主張されるようになるのは、近代になってからのことのようです。背景は、世俗化と個人主義です。だが、それより人格主義からの離反も始まり、そして近代の社会問題の多くがそこから生まれてくることにもなります。

 こうした思想状況の中で、賀川先生は、個人ではなしに「人格」を、そして自利ではなくて「友愛」(「兄弟愛」)を、その社会構想の基本に据えたわけです。これらはキリスト教からきたものであるにしても、「人権」の理念と同様に普遍化できる価値理念ではないでしょうか。

 そしてまた、そうだとすると、在るべき社会体制の方位は、「人格経済」と「友愛経済」、つまり人々が自発的に助け合う共助組織を基軸にした社会編成の方向となるはずです。賀川先生の、いわゆる「協同組合主義」の社会構想がこれです。


(三) 唯心論とその実践的帰結
―マルクス主義との類縁性と相反性
―社会改革に決定的となる意識の覚醒と教育


 もう一つ、賀川先生の社会思想について重要なことがあります。賀川先生ご自身の表現を移すなら、その「唯心論」です。英語ではidealismです。

 賀川先生は、大正の末期、おそらく日本で最もマルクスを読んだ人の一人です。賀川先生の経済学は、マル経の系列です。つまり、資本主義社会というのは、人格たる人間が圧殺される社会です。労働者だけではない。資本家も、本来手段たるべきお金を自己目的化して価値が転倒し、人格たる人間を自ら失っている。労働者は奪われ、資本家は自ら失っている、この「人格」たる人間を回復しなければならない。マルクスの思想もそうです。

 ところが、マルクスは「唯物論」です。マルクスは人間生活の全体を「下部構造」と「上部構造」に分けます。「下部構造」は、経済関係と生産力です。「上部構造」とは、法律、道徳、美術など、諸々の観念形態です。そして、「下部構造」によって「上部構造」が決定されると考えています。人間性を失った社会の姿は、「上部構造」の姿に属します。だから、今日の資本主義社会の中で人間を回復するには、それを支える私有制の「下部構造」を変革しなければならないというのが、マルクスの考え方です。そして、その変革運動の推進に「革命方式」を推奨したのです。

 ところが、賀川先生は、経済関係も、政治関係も人間がつくったもの、人間精神の所産だと捉えます。だから、社会を改革していくには、決定的に重要になのは、まず人々の「意識の覚醒」だということになります。これを推し進める仕事が教育、学習です。人間を変える事によって、社会を変えていく。これを賀川先生は、「唯物論」に対して「唯心論」と言っているのです。賀川先生が挙げた生活協同組合の七つの中心思想があります。「利益共楽」「人格経済」「資本協同」「非搾取」「権力分散」「超政党」、そして最後は「教育中心」です。だから、協同組合運動を進めるには、不断の学習による精神の覚醒が必要だということになります。


   四、賀川構想の今日的意義

(一)今日の社会状況と賀川時代との類似性
―なおも有効な賀川の資本主義批判
―近代文明(経済主義、個人主義、効率主義)批判


 最後に、賀川先生の、こうした構想や理論の持っている今日的意味に目を向けてみましょう。

 賀川先生が「資本主義批判」で、特に強調するのは、人格たる人間の喪失とともに、「資本主義社会における貧しさは、物が無いからではない。過剰のゆえだ」ということでした。

 当時、poverty in plentyという言葉ができました。povertyは「貧困」、plentyは「豊か」ということですから、「豊かな中の貧しさ」ということになります。八十年前は失業保険もありませんから、失業した日から収入はなくなる。だから、物が安くなっても買えない。そこで店には商品が山積みになる。店頭には物が溢れているのに、街頭には飢えた労働者がいっぱいおるという惨憺たる状況です。これをpoverty in plentyと言った。

 賀川先生はpoverty inではなく、poverty of plentyという言葉を使っている。「過剰の貧困」です。これが資本主義社会の最大の問題点の一つ。「人権の回復」「人間尊重」の重要性を賀川先生が強調された時代と、今もあまり変わりはないようです。ことに、昨秋来の「金融危機」のなかで、今日われわれは同様の矛盾に苦しんでいるのではないでしょうか。

 それだけではない。賀川先生の資本主義批判の中には、近代文明の批判が入っています。近代文明の特徴は、第一に「物質主義」です。さらに、それと結びつくのが「経済主義」です。economismという言葉もあります。それから、第二に「個人主義」です。全くの個人主義もあれば、個集団主義もあります。国もそうです。自分の国だけが良ければ良いという考え方が支配しています。近代文明の特徴のその三は「効率主義」、あるいは「合理主義」です。効率ばかりで人間が評価される。市場は効率を競い合う場ですが、その市場原理が全てを支配している。学校でも、そうではないですか。偏差値の差でもって、どれだけ効率よく勉強するかばかりが問題になっている。これは今日に当てはまります。賀川先生の資本主義批判の中には、「近代批判」があり、これは今日にもそのまま妥当するものが少なくありません。


(二)今日と賀川の時代との違い
―求められる賀川構想の新しい展開

①両極体制の挫折と三層秩序への動向
―協同組合の社会的位置の変化


 賀川先生の時代と現在では、共通の面もありますが、大きく違う面もいくつかあります。生協活動に関連して重要なものを、二つ、三つ挙げておきます。

 第一、社会体制、特に先進社会の社会体制です。

 資本主義は確かに、市場経済を基礎にしている。だから賀川先生は市場を非常に嫌う傾向がある。しかし、市場がなければ、社会の効率は上がらないというのが、今の経済学の共通の認識です。市場セクターが社会の基礎になるのです。その前提は「自由競争」です。それで効率を競い合う。これを担っているのは、主として「企業」です。

 ところが、全てを市場に任せた、かつての「自由資本主義」はつぶれてしまった。だから、今度は国家が出てきた。行政が計画、管理し、経済全体を牛耳って、中央管理の経済になってくる。これがソ連共産主義であり、ヒトラーのナチズム、ムッソリーニのファシズムでした。

 これは賀川先生の予言通り、長続きしなかった。しかし、行政的な介入というのは不必要になったのでは無い。「市場か行政か」ではなく。どのようにして市場セクターと行政セクターをうまく結び合わせるかが、今日の社会の一番大きな問題です。

 自由競争をやっていれば、「格差」「不公正」が出る。均(なら)さないといけない。行政に求められる大きな課題は、「公正」と「平等」です。ところが、一九八〇年代から先進社会で目立ってきた、もう一つの動きがあります。企業でも行政でもない、「中間セクター」の拡大です。これはボランタリーな助け合いの民間組織の急増です。「ボランタリーセクター(voluntary sector)」とも言われます。広い意味のNPOです。

 「広い意味の」というのは、我々の生協は日本ではNPOに入りません。なぜかと言うと、アメリカの制度に従ったからです。アメリカでは、NPOは八つぐらい条件がある。そのほとんどの条件を生協は持っています。例えば、「自発的な組織」「加入脱退の自由」「民主的な運営」とかです。一つだけ当てはまらないのが、メンバーに「利益を配分しないこと」ということです。我々の生協は組合員に利益を配分するでしょう。だから、それだけが当てはまらない。しかし、ヨーロッパに行ってNPOと言うと、代表的なものは生協です。生協は、本来、営利組織ではなく、助け合いの組織です。文字通り、非営利団体(NPO)です。

 いずれにしましても、拡大してきたボランタリーセクターの最も代表的なものは、協同組合です。世界一の大きな組織を持っている。これは赤十字に並びます。国際協同組合同盟(ICA)への参加組合員は約八億人です。しかも、組合員というのは世帯数に近い。だから平均三人家族だとすると、二十四億人という人間が、我々の協同組合の下にあるということです。しかも、その中でも生協は最も長い歴史を持っている。もう百六十年を越えています。

 つまり、協同組合は世界的な潮流になりつつある、新しい社会セクターの中心的な位置を占めてきていると言っても、過言ではありません。日本の生協がICA会長の役割を引き受けて世界を動かす、こういう時期に来ていると言って良いと思います。

 もう一つ、生協は百六十年間、社会のいわば脇役でした。自由資本主義の時代、支配的なものは資本主義で、そこで落ちこぼれる人々の助け合いの性質を持っていた。共産社会にも生協はありました。しかし、中央で全部管理する計画管理の一つの機関に過ぎなかった。

 ところが今、世界の先進国では「中間組織」が社会を形成する主役の一つになってきているわけです。これから生協の使命は非常に大きいと思います。


②自然の限界の接近と賀川理論

 賀川先生の時代と今と違う第二の点として、世界全体が自然の限界にぶつかってきたことが挙げられます。例えばCO2問題一つにしても、先進国が一九九〇年代水準の二五%から四〇%減らすことが求められている。これに対して、今の新興諸国は我々の近代化を抑えるのかと、反発しています。今、CO2問題でも新興国の方が、効率が悪い。中国は同一単位のものを造るのに、日本の約六倍のエネルギー・資源を使う。だが、「地球をダメにしてきたのは先進国ではないか。我々の工業化を抑えようとするとは何事か」というのが中国などの言い方です。

 賀川先生は七十三年も前に、「資本主義世界というのは、資源が無限にある場合はまだよい。しかし、自然資源が底をつくようになると、惨憺たる悲惨な状態をまねく」と警告しています。


③今日の世界動向と賀川の世界連邦思想

 世界は今、大転換期にあります。第二次大戦の米・ソ二極対立の果てに、共産体制はつぶれました。今、共産中国が栄えているのは、経済では共産体制を放棄し市場経済を導入したからです。

 残ったのはアメリカの「一極支配」でした。ところが、その一極支配も二一世紀に入ると、二〇〇一年の「九・一一テロ」で、ぐらついてきた。そして、昨年の秋からの「アメリカ発の金融危機」です。経済の米国「一極支配」の時代も崩れ始めています。

 今、イスラム世界の浮上とともに目立つのが、いわゆる「ブリックス(BRICs)」の勃興です。ブラジル、ロシア、インド、中国の離陸です。資源大国、人口大国が、次の世界を大きく動かす形で伸びてき始めた。ことに、中国の経済成長は驚異的で、最近は米国と並んでG2などと言われるようになってきました。日本以外は世界のほとんど全体が欧米の植民地、ないし半植民地だった賀川先生の時代とはすっかり変わっています。

 しかし、世界がこのままやってゆけるわけはない。すでに、エネルギー・資源の限界にぶつかり、環境汚染も限界にきている。食糧についても、私の友人の専門家は、「あと二十年で世界的な食糧危機がくる」と言っております。だから、日本と世界全体の体制というものを大きく変えなければならない時期が来ているわけです。そうでなければ、全人類が共倒れです。友愛の原理に基づく賀川先生の世界連邦構想は、むしろ今日、現実味を増してきているのではないでしょうか。


(三)協同組合は今なお事業であると同時に運動
―ことに生協に求められるもの


 こういう時代に、賀川先生が生きておられたら、どうされるでしょうか。社会と世界の再編成に身命を投ずるだろうと思います。生活協同組合も単なる企業ではありません。世直し、社会を改造していく重要な運動の一つです。賀川先生が生協に託されていたこのことを、我々は肝に銘じておくべくだと思うのです。