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特集『平和の大切さ!!核兵器廃絶の重要性を語る』

滋賀の生協 No.150(2010.2.1)
二〇〇九年十一月八日(日)
平和の大切さ!! 核兵器廃絶の重要性を語る
【主催】 新国際署名『核兵器のない世界を』推進滋賀県センター
「ピースアクション二〇〇九・しが」実行委員会
【後援】 大津市・大津市教育委員会立命館大学びわこくさつキャンパス
二〇〇八年ノーベル物理学賞受賞
京都産業大学教授

益川 敏英さん

 「科学者であれば反戦平和主義者になるというのは嘘だ」「平和の問題が市民として重要だと思った瞬間に、科学者としての知識が役に立つわけです」科学者の冷徹な目と、一市民の熱い人間性で、「戦争」「平和」「核兵器」を語っていただきました。



   なぜ、平和を語るか

 こんにちは。私、週の七分の三は滋賀で暮らしています。だから七分の三ぐらい滋賀の住民なのですけれども、滋賀ではこういうお話をさせていただくのは今回が初めてです。

 私の幼い時の話は後で述べますが、坂田昌一先生は、湯川秀樹、武谷三男、朝永振一郎先生たちと一緒に原水爆禁止の運動を非常に熱心にやっておられました。当然のことながらその研究室で育った我々も、そういう運動のお手伝いをしておりました。但し、坂田先生との年齢差は二世代くらい違うのですね。だから、助教授の先生たちが坂田先生の意をくんで、「なになにという事件が起きました。先生、声明を出さなければいけないのではないですか」と「うん、そうだな」「じゃあ我々が下書きを作ってきますから、先生見てください」とか言って下書きをつくるのですね。で、作って持って行くと、坂田先生が「ここのところはいらん」とか言って朱をいれて出来上がる。出来上がった声明を、我々がガリ版刷りをして封筒に詰めて発送する。それぐらいの関係なのですけれども、平和問題には強い関心を持っていました。

 特にその時代、一九六四年に佐世保に原子力潜水艦が入港する。原子力潜水艦は原子炉を持っていて危険だということだけではなく、世界戦略上非常に重要な位置を占めているわけです。だからそれは国際政治の中でどういう役割を果たしているのかというようなことをよく知っている助教授クラスの人から勉強して、それでノートを作る。作ったらそれを持って講演活動に行くわけですね。

 そういうこともあって、平和の問題、核兵器の問題は考え続けてきましたけれども、どちらかというと「お手伝いだ」という意識で過ごしてきました。

 それが最近になって少し変わりまして、「変わりました」というのは、今年の一月の三十日に朝日新聞の記者さんがみえて、一応インタビューを終えて駄話をしている時に、ふと「もう戦争のことを実体験として語るのは我々が最後じゃないか」と思ったのですね。私が一九四五年の歳は五歳です。一年若い四歳の記憶なら戦争というものは残っていないと思います。「ああ俺が最後か」と思ったとたんに「ちょっと何かしゃべらないといかんかな」と思って、ほんの少しだけれども戦争体験を記者さんに語ってしまった。ほんとに「しまった」という感じなのです。なにも「語って記事にしてもらおう」なんていう心は全然ない。「語ってしまった」。そしたら話が大きくなっていって、あらゆるところでお声がかかることになってしまった。

 その少し前、「憲法九条科学者の会にメンバーとして加わらないか」というお手紙をいただいた時には、「賛同します。みなさんの足手まといにならないように、最後尾をついていきます」という記事を書いたのです。それはレトリックでも何でもなくて、本当にそれぐらいの意識だったのですね。

 そうこうしているうちに、どうも最近のいろんなことを知ると「これはちょっとまずいのではないか」と。で、最近のポジションは「最後尾ではなくて、後ろから三番目ぐらいを歩いていく」と言っているのですが、なにかもう少しいろんなところからお声をかけていただく割合というのが増えてまいりまして、「これは大変だ」と思っている今日この頃なのです。

 私の戦争体験は、五歳の時、戦争の終る最後の年、一九四五年です。その時に名古屋で被災にあいました。私が住んでいたところは、名古屋鶴舞(つるま)公園の近くで、小学校も鶴舞小学校です。その公園の縁にちょっと高台があるのですが、そこに陸軍の高射砲陣地がありました。それで、B二九が来たりすると迎撃をする。迎撃と言えば格好良いけれども、日本の高射砲は大体七千メートルぐらいまでしか届かないのです。B二九は一万メートル上空を飛んでいる。だから「おお、我々に歓迎の花火を上げているわ。じゃあ、こっちも挨拶代わりに爆弾でも落としていくか」という感じなのですね。

 で、われわれのところはかなり集中的に爆撃をされ、周辺は全部焼けました。木造二階建ての私の住んでいた家にもちゃんと焼夷弾はふってきましたが、なぜか不発弾で焼け残った。

   ジェーソン機関

 焼夷弾といえば、初期の焼夷弾は性能が悪かった。改良された第二世代のものが降って来た。それで、アメリカも考えて、軍事科学、軍事研究というのかどうか知りませんけれども、そういうものに動員されて参加している研究者もいるのです。

 ベトナムの戦争のさなかに「ジェーソン機関」というのがあって、戦争遂行のために協力をするわけです。軍隊が協力を必要としていたというのではなくて、「参加させる」ことに意味があったのでしょうね。国内の人間をみんな動員するという意味で。

 ベトナムでゲリラと遭遇し、戦闘をして帰ってくる。そうすると「俺は何人殺した」という報告がある。そういうものを集計して、現在の戦力の比較みたいなものをしているわけですね。しかし、ジャングルの中で非常に小規模なゲリラと戦ってくるわけですから、報告はどうしても水増しが多くなる。正確な戦力評価というのができない。

 そこで「ジェーソン機関」。名前あげても言えますけれども、三十人ぐらい、その中に六、七人はノーベル賞をもらった人が入っている。そういう人間を集めて「間違った、インチキな報告をさせないためにはどうすればいいか」を研究させた。それで出した答申が「左耳を切って持って来い」。人間には一つしか左耳がない。なぜ左耳なのかよくわかりませんがそれを持ってくるわけです。それを針金に刺して持って来て、「何人の成果があった」ということをやらしていたのですね。

 それを見た時に、私たち若手は、同じ素粒子論屋ということでいやな思いをしました。その時にあった、日本物理学会の春の大会で、若手が決議を出して「ベトナムで今、毒ガスの散布が行われている。それに対する反対決議を出そうじゃないか」といって提案した。そしたら、酸いも甘いも噛み分けた中年以後の先生は「学術的な場で、そういう政治的な発言をするのは好ましくない。止めといてくれ」と言って、我々と激しくやりあいました。

   軍事技術と科学者

 しかし、戦争に科学者が動員されるということは、本当に必要ではない。軍事研究で戦争のことを研究している人はいますよ。それは、職業として参加、協力している。だけど、残りの九十数パーセントの科学者は日常的に戦争に協力するなんていうことは考えてもいないのです。

 こういうことが七〇年代に起こった。当時六十階建てのビルだとか、高層ビルがにょきにょき建った時代です。そうすると、大きなビルでテレビ電波が反射され、回り道してきた電波は遅れて到達します。そうすると画面がずれる。だから「ゴースト」と呼ばれている現象が起こった。最近はテレビ「ゴースト」はないですね。あれはメインの信号を捕まえたら、それのマイナスの電波の何分の一かの強さで、ちょうどこの「ゴースト」に相当するところに差し込むのですね。それでゼロになるというような、コンピューター処理で非常に高級なことをやっています。

 しかし、当時そのような高級な技術はありませんでしたが、「ゴースト」を解決する妙案を考えた会社がありました。「ペンキ屋さん」です。「ペンキ屋さん」と言っても非常に大きなペンキ屋さんですが。それは何かというと「フェライト」というもの。最近磁石で非常に強い磁石がありますね。あれを粉にしたものです。それをペイントの中に混ぜ込んだ。そうすると磁石ですから、電波が来るとそれに反応して動いたりするわけですね。ということは電波を吸収できる。非常に効率の良い「電波吸収剤」がつくれる。それを作って高層ビルにペイントをペタペタやる。それで、「ゴースト問題」はかなり軽減した。無くなったとは言いませんが。

 しかし、その十数年後、アメリカで見えない戦闘機「ステルス戦闘機」が現れます。あれは黒に近い茶色ですね。あれは、その「フェライト」を含んだペイントを塗っているのです。そうするとレーダーの電波を吸収して反射しない。だから見えにくくなる。

 もう一つ見えにくくする方法は、曲面をなくす。曲面があるとレーダーサイトの方を向いている面は電波が帰って行っちゃう。だから映る。しかし平面にしたら来た電波をフイっと別の方向へ反射して戻って来ないのです。だからああいう戦闘機は、平面を張り合わせたような、奇怪な格好をしているのです。

 見えない戦闘機というのは、何が危険かと言ったら、先制攻撃を可能にするのですね。相手のレーダーに察知されずに攻撃できる。

 そこで、「電波吸収剤」を入れたペイントを考えた研究者に「おまえはとんでもない悪い奴だ。おまえが変なものを発案したから戦争がやりやすくなるじゃないか。お前は非常に危険なことをやってくれたのだ」と文句言っても、多分その技術者は「えっ?」と言って、キョトンとしていると思いますね。「自分は何も戦闘機に使うつもりで開発したわけではない。回りまわってそういう使われ方をしている」。

 だから科学者の多くの人にとって、戦争との関わりがもしあるとすれば、このタイプなのですね。「ジェーソン機関」で本当にモロに動員されているようなやつは、同じ人類だとは思いたくない。しかし、今日においては、概ね科学の成果を軍事技術として使うというのは、まわりまわって使うのですね。

 科学者であれば必然的に反戦平和主義者になるというのは、僕は嘘だと思っています。基本的には市民としての立場だと思いますね。今この社会が、戦争の危機に向かって動いている。それに対して反対なのか、賛成なのか。それは自分たちの孫の問題まで含めた生きざまの中で、当然反対だとか、賛成だとか、いろんなものが出てくると思うのです。その先に科学者が、平和の問題は市民として重要だと思った瞬間に、自分の科学者として持っている知識なり、そういうものが役に立っていくわけですね。

 先ほどの例で言ったならば、その科学者が「戦争反対だ」となった瞬間に、「あ、あの戦闘機はあの色から見て、あれは電波吸収材が塗ってあるぞ」「だからあの戦闘機は防衛ではなく、先制攻撃をするための兵器なのだ」。「それは良くないじゃないか」というロジックで反戦になっていくのだと思いますね。

 だから、科学者をこういう会に引っ張り出して、語らせて、地肌を出してあげる。日常的には研究をやっていると研究のことが面白いしね、引き籠っている方が楽しい。だから時たま、僕みたいにこういう場に引っ張り出されると「何かしゃべらなければいけない」と一生懸命考える。

 「ジェーソン機関」のメンバーでダイソンという男がいるのですけれども、彼は朝永振一郎先生の「くりこみ理論」を大幅に発展させて、非常に計算しやすい理論に発展させた。我々若手は一生懸命勉強した論文です。その第一論文で、朝永先生の名前が出てきて、そこに脚注が書いてある。そこで、朝永先生の「超多時間理論」、朝永先生の「くりこみ理論」に到達するきっかけとなった理論なのですけれども、それが「第二次世界大戦の戦争中であったがゆえに、世界に知られるのが大変遅れてしまった。それは大変残念なことである」と書いてある。

 だから僕なんかは若かったですからね、「ああ、ダイソンええやっちゃ」と感激しました。そういう科学者も放っておいたら、ベトナム戦争で殺してきたゲリラの数をカウントするのに、「左耳を持って来い」などという提案をする仲間の一員になっている。だから科学者、ダイソンも、非常に地肌だけ見れば「いいやつ」だと思うのです。だけども放っておいて、そしてそういう社会の流れの中で流れていくならば、「ジェーソン機関」のようなこともやる。

 だから、科学者と戦争の関係は、研究者としての感性というか、人間性に頼るというのは間違いです。

 それは何も科学者だけではなく、一般市民でも言えることだと思います。基本的には、そういう集団の中で議論をすると人間は非常に真面目になります。襟を正して話ができるようになる。そういう意味で市民運動がいかに重要であるかということをこの例は表していると思います。

 別な言い方をしたら、人間というのは非常に賢くて素晴らしいやつなのだけれども、放っておいたらやっぱり弱いものなのですね。そういう人間をちゃんと目覚めさせて動きださせる。これはおもしろいことに一回動きだしたら、少々弾圧しても変わらない。

 だから「こういう問題に対してどう考えるのか」ということを、その人の人間性に訴える。「あなたにも親兄弟、子どもたちがいるだろう」「そういう中でどうあるべきか」ということを語りかけて、その先は、科学者としての役割を引き出していく。一般市民の平和運動への参加のしかたとは違う関わり方をしてくれるだろう。科学者であればね。そういうところまで引っ張り出して来なければいけないのだという具合に思います。


   二つの戦争

 少し元に戻して戦争というもの、そのものについて考えていきたいと思います。

 一九世紀、プロシャのクラウゼヴィッツという外交官は「戦争論」という有名な本で「戦争というのは基本的には外交の延長である」と言っています。国と国の間に揉め事があった時に話し合いをやっているのだけれどもなかなか埒が明かない。子供のけんかと同じですね。特に子供の喧嘩だと自分が言い負かされそうになるとコツンとやりますね。あれと同じようなことで「外交の延長である」。外交で話し合って、決着がつかないからやるのが一つ。これは「国と国」と言う形をとっている戦争だと思います。

 しかし、現代においてはもう一つあるのですね。

 私は六〇年安保の世代の人間ですが、一九五九年に「南ベトナム解放戦線」が結成されました。ベトナムという国はフランスの植民地だったのですね。それをホーチミンと言う人の指導によって「独立しようじゃないか」と言うので「ベトミン」という組織が作られます。「ベトミン軍」が作られて解放闘争をやって、最後にフランス軍を追い詰め、ハノイの西方百キロか、二百キロぐらいの山岳地帯、ディエンビエンフーで、山の上に大砲をこっそり担ぎあげて空港を攻撃する。そしてフランスは最終的にそこで敗れ、撤退するのです。

 その時に、若い私はその英雄物語みたいなものを読んでは感動していました。たとえば、戦争する時は、安全地帯にいて相手をたたくことができる高いポジションを占めようとして山の上へ大砲を担ぎ上げる。その時に山の坂道ですから、大砲が滑って下に転がりだした。放っておいたら下で列になって作業をしている者に大変な被害が出ると言うので、ある兵士が自分の体を楔にして落下してくるのを止めた。そういう献身的英雄物語を感激して読んでいました。

 最終的に、ディエンビエンフーで敗れたフランス軍は引き揚げていきます。引き揚げるときが一番危険なのですね。引き揚げる方は戦意をなくしている。そこを攻撃されたら勝負にならない。だから一回兵力の引き離しをやる。それが一七度線です。一七度線でベトミン軍とフランス軍を切り離して、引き揚げの作業をしていく。そして、一年後に全ベトナムの領土で選挙をやって、「どういう政治体制の政府を作るかということを決めましょう」ということになっていた。

 しかし、その空白の時間をついて、アメリカが、CIAにいたゴ・ジン・ジェムという男を南の大統領にした。そしてゴ・ジン・ジェムは自分の大統領としての権力を使って「旧ベトミン軍狩り」をやりだした。「これが俺のところの政策だ」と言えば、許せないけれども論理は成り立つ。だけど捕まえるとその場で銃殺しているのです。「戦争というものはひどいものだなあ」という思いで見ていました。

 しかし、「旧ベトミン軍」は抵抗をしない。「下手に抵抗することによって統一選挙をさぼる口実にされてはいけない」ということで、抑えに抑えた。しかし、それもたまらなくなって「南ベトナム解放戦線」が結成される。

 そこから先は「ベトナム戦争」という形でアメリカと「南ベトナム解放戦線」の戦争になり、その後アメリカが北爆を始めて、どういう具合に終わったかということはみなさんよくご存じのことだろうと思うので話しませんが、こういう種類の戦争。これを戦争と呼びたくないのだけれども、これは自分のところの国の権利として備わっているものだと僕は思う。守るということ、かつ自分のところの国民がある国の中にとらわれているという時に、それを救い出すという行為は、僕はあると思う

 しかし、クラウゼヴィッツが言うところの戦争。「外交の延長としての戦争」。国益と国益がぶつかり合って、そして「俺の言うことを聞け」と言ってゴツンとやる。これは、外交の延長ですから、また自国民を戦禍にさらし、譲歩のできない、戦争をしなければならないほどの大問題があるとは思えない。必ず譲歩の仕方、外交交渉のやり方はあると思う。


   戦争はなくなるか

 僕は最近よく「二百年たてば戦争は本当に無くなる」「百年ぐらいで無くなる兆候が出てくる」という言い方をしています。民族独立というような形のものは、植民地的なところはまだまだたくさんありますが、形式的な意味での植民地というものは基本的にはなくなりました。

 なぜなくなったか。理由はあります。植民地みたいな形にしておいて、黒人奴隷を農園で働かせていく。そういう作業と、工業生産と比べた時に、どちらの生産性が高いか。アメリカのリンカーンが奴隷解放をやりましたけれども、単純に「奴隷がかわいそうだから解放」というのではなくて、その背後にあるのは、北部の工業地帯と、南部の奴隷制農園の黒人の奪い合いなのです。奴隷を解放して工場の労働者にしたいというのと、農奴として使いたい。そこの考え方のぶつかり合いであったのです。

 しかしそれに対して、南北戦争の結果の過程で、一方的に「これは俺のところの奴隷だ」「北部の労働者として使うのだ」ということではなくて、「どちらで働くかということは、働く人たちの決めることだ」と言われたことも間違ってはないと思うのですけれども、それは最終的にそちらの方へ動いたのだと思うのです。

 今の社会においては、農奴、奴隷という形のものは基本的にはなくなってきている。

 その後、国全体が経済的に縛りつけられて、自分のところの資金が収奪されていく。これは難しい問題ですけどね。石油問題を含めて考えてみれば、王様が独占していて、それがアメリカの利権と絡んでいたとか。どちらが正義で、どちらが悪だと、そうそう判断できないような側面がありますけれども、だけど基本的には自国の物は自国が責任を持って管理する。「前々から俺のところが開発してあげたのだから、俺たちにも権利がある」というような言い方ではなくて、やはり自国のことは自国で決めるということをベースにして、且つ「やはり技術がまだついていっていないのだから、あなたのところの技術で援助してくださいよ」というようなことは、僕はあると思います。

 そういうことですから、植民地的な利害関係で始まる戦争というものは、もう終焉に向かっていると思う。

 先ほど言ったクラウゼヴィッツ型の戦争。これはどうなのでしょう。

 僕は、「国と国との戦争だ」と言ったのだけれども、「国と国」と言った時に抽象的な国ではないのですね。そこには国民が住んでいる。そういう人たちが、「何か自分とこの大統領が戦争しようとしているけれども、それはやっぱりおかしい」と言ったら、できなくなっているのですね、今日の社会においては。だからそういう意味で「国と国との戦争」というものがいつまで続け得るのかということを考えてみた時、最近のいろいろな状況を見た時に、明るい光が遠くに見えると僕は見ています。


   遠くに見える光

 アメリカ社会で一九五〇年代、六〇年代というのは、あんな野蛮な国はなかった。「アメリカというのは民主主義の国で自由で万歳」なんて言っているのは大間違いであって、五〇年代というのは労働組合に干渉した暴力団が労働組合の幹部を射殺するとかね、そんなようなことが平気で起こっていたし、六〇年代はみなさんも名前は知っていると思いますが、黒人差別と公民権運動が吹き荒れた時代です。
 しかし今、なにはともあれ黒人の大統領が生まれる社会になっている。

 なぜオバマ氏が出てきたのか、そういう政治的背景、それは自分には勉強していないのでわからないのですが、一つはやはり白人の労働者、プアーな労働者の力が結集したと勝手に解釈していますが、そう大きな間違いはしていないと思います。そうすると政治というのは面白いもので、オバマ氏が何を考えようと、そういう政治背景があるものは、そう簡単に反故にできないのですね。だから今しばらくは、今オバマ氏に対して描いているようなものが大幅に崩れ去るというようなことは多分ないだろうと思います。

 当然なことながら、後二、三回やった時に大統領選挙で違う人が出てくるかもわからない。「揺れ戻し」というやつですね。

 フランス革命で共和制になったものが、その後でまた王制になって、またそれが共和制になって、王制になってということがしょっちゅう起こっています。政治というのはそういうものです。しかし、一つ人々が感じ取った新しい流れ、そういうものは簡単に消えるものではありません。強くなっていくものだと思います。

 そういうものが定着するのにたぶん百年は掛かるだろう。そういうものがまた世界的な何かの拍子に揺れ戻したりなんかする危険性を読んで、「二百年たてば戦争はなくなる」なんて言いました。

 実に面白いのだけれども、そういうことを言った後に、実にたくさんの人からコメントをもらいました。そういうコメントをくれるのは身近な人です。「益川さん何寝ぼけているの?」「本当にそういうこと考えているの?」とか、そういうようなコメントをたくさんいただきました。しかし、今日からみればね、「二百年たてば戦争がなくなる」という主張はかなりすっとぼけた主張なので、そういう意見が出てきても当たり前だと思うけれども、言えることは古代ローマ帝国において「奴隷制をなくそう」という考え方はなりたちません。そもそも奴隷制に依拠した生産体制にあるわけですから。

 しかし今日「戦争がなくなる社会があるかもわからん」ということは、そういう可能性を薄々多くの人たちが感じ始めているのだと思います。それは、紛争とかあった時に、今日のようにジャーナリズムが発達した社会では、何が起こっているかがわかっているわけですね。そうすると第三者が多くいます。だから「やはりあなたたちがおかしいのではないか」という声が、国際的な声になり得るような社会の一歩手前まで来ている。「理性的に考えたらこちらにした方が良いのだ」というものは、紆余曲折しながらも、最終的には人間社会の中では必ず実現していきます。

 これは僕の信念ですけれども、過去を見てそうなのだから、そうなのです。

 個々の人間は実に汚らしいやつがいっぱいいます。しかし、人間という抽象的な集団、これは実にすばらしい。それは集団では角が取れていくのでしょうね。そういうへんてこなやつがぶつかりあって、集団としてみた時に、多分抽象的な人間に出来上がったものはすばらしい。僕はこれを信じて良いのだと思います。より多くの人たちがそういうことに確信をもって信じていくことが平和な社会をつくりあげていく。

 例えば、こういう運動ですね。何もないところでは絶対何も起りません。だから「こういう方が良いのではないの」ということを語りあって、そして一人ひとり、「変えていく」。僕は小生意気で「お前に変えられたくないやい」と反対をやってみたくなるのですが。だから友達どうしが語り合うのが一番良いですね。上下関係で命令されてやるようなものというのは、基本的には確信になっていきません。特に若い人たちが議論をする。初めは青臭いと言われるかもわからない。しかし、「青臭くて何が悪いのだ」と。それぐらいの「開き直り」というのは重要です。「二百年たてば戦争がなくなるって、益川さんとぼけたこと言っているなあ」と言われるけれども、「それは良いことは良いじゃんか」と。「そういう具合に実現していこうじゃん。あんた反対?」と開き直っています。


   私の戦争体験

 最初に申しましたが、私は一九四〇年に生まれました。ですから終戦の年は五歳。その年に疑似被爆体験をしました。二階建ての木造の家屋に焼夷弾がいらっしゃいました。初期の焼夷弾は性能が悪くて、日本の瓦屋根には適さなくて、ツルツルっと滑って行っちゃうのです。それを、軍事研究なのでしょうかね、誰が研究したか知りませんけれども、アルミ製の八角形の筒の中にペースト状の樹脂に、アルミの粉が混ぜ込んである。火がつくとそのアルミの粉が酸化します。そうすると酸化熱で非常に高温になる。だから非常に効率よくこんがりと焼ける。それが二階の屋根を突き抜けて二階の床を突き破って一階まで落ちてきました。それがコロコロと目の前で転がっているのを記憶していますけれども、家に落ちてきたやつは、たまたま不発弾だった。不発弾なのだけれども、幼時の記憶というのはムービーじゃないそうです。スチール写真。だからそのコロコロっと転がっているところの写真が一枚と、その後、両親がリヤカーに家財道具を乗っけて、その上に僕がぽつんと乗っけられている。その写真が二枚。全然怖いとかいう記憶がありません。ただ、その二枚がある。

 「怖いな」と思いだしたのは、フランスとベトナムの戦争、それからベトナム戦争というものを通じて、「戦争というものはこのような残酷なものか」ということを知った段階で、「ひょっとしたらあの時に不発でなかったら、自分は死んでいるか、大火傷をしていただろうな」と、その段階になって、実に頓馬な話なのですけれども怖くなりました。

 私はそんな戦争体験があるということを、今まで話をしてこなかった。多少平和の問題など語る機会があっても、「理論屋」ですから、「そんな事を想像できなくてどうする。戦争がどんなものかぐらいのことは、ちゃんと『理論屋』だからわかっている」という小生意気な立場だったのです。今でもそれは大して違わないのだけれども、聞いていただく側からしたら、安心して聞いておれるのですね。「戦争体験があった。ああそういう人がしゃべっているのだなあ」と。そこで、私はそういうことを利用させていただく立場に立つことにしました。ちょっと冗談めいているのですけれども。


   精神形成の時期

 私自身は六〇年安保が精神形成の時期で、その四年後に原子力潜水艦の寄港問題があって、その時原発問題とかそういう問題にも首を突っ込むようになりました。

 私のいた名古屋の坂田先生の研究室では、「二足のわらじを履く」と言うのだけれども、普通はあまり良い方向に使われないのですけれども、研究だけやっているような人間というのは、「お前はそのぐらいの能力か」「他のこともやれない様じゃ男じゃねえ」ぐらいに、粋がっていました。小林誠君の世代は違います。なぜかと言うと、先輩方が大幅に入れ替わった時期なのです。だから研究室の方の雰囲気というか、文化みたいなものが変わっている。私ぐらいのところが最後でした。

 六〇年安保なんていうのは大変楽しい時期でした。「デモの時代に何を言っているのか」と言われるかわからないのですが、朝早く起きて、九時ぐらいに団地まわりをやって署名活動。「署名をしてください」。僕なんか下手なのですね。「だめです」とか、傑作なのは「間に合っています」とか。そういうふうに言われると「はい、わかりました」と言って帰ってくる。でも、上手な人は、そこで世間話を始める。世間話を始めて、五分でも十分でも経った後に、もう一回言うのですね。「署名してください」と。そうしたらしてくれる。「ああ、この人はサラリーマンになったら成功する」と。十時半か、そこらまで署名活動をする。その後、午後は集会、デモをやる。その間に時間が空いている。そうしますとね、僕らの友達でなかなかユニークな人がいまして、学生服の背中に大きなポケットを縫ってあって、そこに本を入れてある。学生服を着ていると持って歩ける。それを見て「格好悪いことをやっているな」と思ったけれども、僕は「非常に良いアイデアだ」と思ってこっそり真似をしました。背中に本を背負って歩いて、時間があればここを開けて、自分ひとりでも勉強をする。仲間がいればそこで輪読をするなりしていました。その後、集会があって、デモがあって、流れ解散になる。そうすると当然のことながら別れ難い。多少はみな気分的に高揚というか、興奮をしているのですね。だからすぐ別れちゃうのは惜しいというので、喫茶店に入って人生論を語り合う。哲学めいたものから恋愛論から、何から何までやる。だから勉強もよくしたし、そういう議論もしたし、そんな生活を送っていました。

 一九六四年ぐらい、日本では大きな政治問題としては「原子力潜水艦の佐世保入港」がありました。戦争する道具の中に原子力を狭い場所に積んでいくのだから、安全装置とかそういうものは無視されているわけですね。それが、人々がたくさん住んでいるようなところへ入港してくる。

 しかし、我々はそんなによく原子炉とか、原子力潜水艦のことを知っているわけではない。そうすると助教授ぐらいの人で指揮者がいる。そういう先生がこういうことに対してレクチャーをやってくれる。「アメリカのそもそもの世界戦略はどうなっているか」「そこの中の原子力潜水艦の位置づけはこうだ」「原子炉はこういう構造になっていて、一航海のうちにどれくらいの放射能がたまるか」「そこの放射能のうちの一パーセントが外に漏れ出した時にどれぐらいの被害が起こるか」ということをレクチャーしてくれる。

 そして今度はその指揮者が手配師になるのです。労働組合だとか、市民の勉強会だとか、そういうところから「講師を派遣してくれ」というようなことが、その先生のところへやってくるわけです。今考えてみると、どういうメカニズムでその手配師のところに集まっていたのかわからないのですが。そうすると手配師から、「君、どこどこへ行ってきなさい」と言われる。そして、そのレクチャーの結果を持って行きますとね、講演料として、大体平均三千円ぐらいくれるのですよ。三千円というのは、当時、週三日の家庭教師をやるとそれぐらいになる。だから非常に良いアルバイトだったのです。尤も、その手配師の先生は、手配師だから当然半分持っていく。半分持っていくと言うけどね、それはなにもその先生が儲けようというのではなくて、運動をするにはいろいろお金がかかります。だからいろいろな集会をやろうとしても、こういう会場を借りようとしたら借りるお金がいるとか、そういうものに使われているのだけれども。で、その手配師の言うとおりに動いて、その中で一番ビビッたのは、「行ってこい」と言うからいつものようにサークルの小さな勉強会だと思って行った。そしたら大きな組合の定期大会があって、そこの記念講演だった。さすがに益川さんもその時は足がガタガタ震えました。最近は老化しまして筋肉の反応が悪くなりましたから、そういう震えるなんてことはありませんが。


   研究室の文化

 その時代の我々の文化ですね。研究室の文化は「二つのことがやれないようでは、そんなものは男じゃねえ」。これ女性蔑視ですね、女の人でも頑張っている人はいる。しかし、その当時、何か言うとすぐ「男じゃねえ」。で、そういう二つのことをやることを誇りにしていた。だから大変しんどいのだけれども、そのしんどさは自分の中で吸収して、外側には平気な顔をしてやる。

 だから小林君と例の論文を書いた時も、組合の書記長の任期がもうほとんど終わりかけの六月。七月に定期大会があってそこで変わるのですから、後ほんのわずかなのですが、なにはともあれ現役の組合の書記長で、定員削減というもののあおりをくって非常勤職員の首切りというものが頻繁に行われていた。だから六法全書を持って、それで秘書の首を切ろうとしている教授のところへ、助手の私が行って机をドンとたたいて「たとえ一日でも雇ったら、それは国家公務員だ。そういう国家公務員を切るということはどういうことを意味しているか」。それは一日雇用でも三カ月続くと「期待権」が発生するのです。だからそう簡単に「日々雇用だから三カ月雇って明日から来なくなっていい」と言うようなことがまかり通るようなものに法律はできていない。そういうようなことを勉強して、ダーンとやったのです。

 そうすると傑作なのだけれども、暴力学生、ゲバ棒を持っている人ね、あれはどういう戦略を持っているかというと、「虐げられた人間ほどオルグしやすい。仲間に引っ張り込むのに楽だ」という理論を持っていて、「だから定員外職員が一番引っ張り込みやすい」というのが彼らの論理ね。それに対してそういう人たちを救おうとしている組合活動が邪魔になるわけです。そうすると組合のいろいろな立て看を壊していってくれる。毎日のように壊す。だから組合の活動の半分ぐらいは壊された立て看を直す。僕はそんな工作は上手じゃないから上手な人のところへ駆け込んで「なんとかしてね」と言って直す。

 そういう意味で、朝十時に出てきて十二時までは小林君と物理の議論。生協で飯を食べて、昼から組合のことで駆けずり回る。五時ぐらいから組合の書記局会議だとか、いろいろなものがあるからそれをこなして、家に帰ると八時ごろ。八時ごろに家では二男が生まれたころなので、多少そういうことを含めて我が家の周辺で起こっていることがらも、女房から聞く。それで九時過ぎに風呂に入って勉強を始める。一時ごろに寝て八時に起きて、飛び出して行ってまた小林君と議論という、そういう生活を送っていたわけです。

 だから、当時でも、名古屋大学では私なんかが古い方に属していたのだと思うのだけれども、「二つのことができないようでは男じゃねえ」なんて粋がっていていた。それで私が一回失敗したことがあって、そういう組合の役なんかを持って来られた時は、引き受ける条件があれば僕は返事を五分と延ばしません。「絞り出す」という組合用語があるのだけれども、「やってくれ」と言った時になかなか引き受けてくれないから、取り囲んで攻めるわけですね。だけど、それは、僕は嫌だから五分で大体カタがつく。しかし一回、「こういう役をやってくれ」と来られた。その時に、断り方で一番上手に断れるのは「今僕は非常に勉強をしたい。だからそんなことをやっている暇がない」と言うことです。そうすると相手も研究者でしょう。だからそれ以上追及されない。サッと「わかった」と言って帰っていく。他のことでいろいろ忙しいと言ってもダメなのね。但し、僕は今思い返しても、その後僕の代わりにやられた人に対して「悪いことしたなあ」と思っている。その人が置かれている状況よりは、多分僕がやっておいた方が良かったのだろうと。だからそれはちょっと慙愧の念に堪えません。


   廃絶のプロセス

 核廃絶ということですが、こういうことがありました。福井県、あそこは原発のメッカですが、福井高校に講演に行きました。そしたら福井の駐在しているNHKの女性の記者さん、その後ワシントンの特派員になったりしているのですが、その方が「核廃絶、原発問題をどう考えますか」と質問をしてきました。その人は「危険だからやめとけ」ということを言わせたかったのだと思います。また、日頃の言動から見て「益川だったらそう言うに違いない」と確信していた。ところが僕は「使えるようになるでしょう」「使えるようにしなければなりません」と言いました。そしたら泣き出しちゃった。僕は女の子を泣かしたのはあの時が初めてです。それであわてて「いや、僕の言っている意味は百年、二百年後の話のことを言っている。そこまでには使えるようにしなければいかんだろう。そういうつもりで言いました」。

 それはそうであって燃料問題をトータルで考えた時に化石燃料もそのうち無くなる。だから何を使ったら良いなんて、答えがあるわけではない。だからそれぞれのものを、僕は、「だまし、だまし」使って行かざるを得ないのだと思う。その特徴をつかまえてね。

 一番いけないのは「秘密にする」ことなのです。東海村かなんかでありましたね、ウランを流し込んで今実験をしているのだけれども、ある装置があって濃縮しないように安全装置が途中に作って、あまりたくさんの物が流れ込まないようにしてある。しかしそれを通すと、当然のことながら流れが遅くなるわけですね。それで労働者は何をやったかと言ったら、そこをスキップして、そちらの物をバケツで汲んでですね、こちらに流し込んだのです。それで濃縮が起こって爆発した。それの一番いけないことはどこかというとね、「安全だ。安全だ」と言いすぎたのですね。だから、労働者に初めから「俺たちは危険なことをやっている」と。「しかし、エネルギー問題はこういう状態であって、『だまし、だまし』使わざるを得ないのだ。だからここにこういう安全装置が作ってある。だから十分気をつけてやってくれよ」と言えば、そういうことは起こらなかった。エネルギー問題すべてに言えることだと思うのだけれども、いずれにしてもその特徴を理解しながら、僕は「だまし、だまし」使って行かざるを得ないのだと思っています。反論のある方は後のコーナーのところでいくらでも言ってください。いくらでも受けて立ちます。

 核兵器廃絶のことについてはですね、最初、アメリカの大統領に「核兵器を作れ」という進言をアインシュタインの名前でしました。それはヨーロッパからアメリカに逃げてきた科学者が中心となって、自分たちの名前を入れるよりアインシュタインの方が圧倒的に有利だというので頼んだのですね。

 「ナチがウランを集めているという情報が流れている。あそこが先に作ったら大変だ」と。「だからアメリカよ、力に余裕のあるあなたのところが作ってください」という手紙を書いた。その後にちゃんと、「ナチが手を挙げた先には、作りあげた原爆は国際管理をしましょう」と、そこまで考えて提案した。

 しかし、折角作ったものをアメリカは手放さなかった。「これはアメリカの世界支配に大変有効に使える」と。ソ連というのが対抗馬として強く出てきた。あそこを抑えるにはこれが必要である。そして戦争に使ったわけですね。その後でも、アメリカは、「原爆などというものはソ連みたいな未開国に作れるはずがない」と思い込んでいた。そしたら一九四九年だったかな、ソ連が作っちゃった。その後、水素爆弾をビキニ島で、水素爆弾ではなくて、まだ爆弾にはなってなかった、非常に重たい「水素爆発装置」を櫓を組んでその上で爆発させました。しかし、その半年後にソ連は水素爆弾を作って爆弾として実験しました。

 このように兵器というものは一国が独占できるものではない。科学の世界というのは秘密にしておけない。なぜかと言ったら「どこどこがこういうことに成功した」ということがわかっただけで、その内容が半分までわかる。どうしてかというとね、「成功した」という情報が入るまでは、できるかできないかわからないものだからなかなか力が入らない。しかし、「あそこが実験に成功している」とわかった途端に「あ、やればできるのだ」と。そういう形で秘密にはできない。

 だから「核兵器の廃絶」という問題を考えた時に、「廃絶」という形に持っていけるのが一番上策だと思いますけれども、やはり当面はお互いの信頼のもとでの「国際管理」だろうと、僕は思っています。

 原爆とか水爆というのは、今やそれほど作るのが難しい問題ではないのです。だからこっそりね、こっそりと言っても電力がたくさんいるので、あまり完全に秘密裏にやることは難しいとは思うのだけれども、内緒で作るようなやつが出てきた時に、やはりそれに対する「防御機構」みたいなものは、国際的に持っている必要が、僕はあると思うのです。だから完全に「廃絶」というよりは、やはり「国際管理」をして、そして一国の意思ではなくて、国際的に安全装置としてもっている。それが十分社会が安定になった段階で、「もう持っている必要がない」というときに「廃絶」になるのだと、僕は思う。だから「核廃絶」ということで「あなたは反対ですか、賛成ですか」と言われちゃうと「ちょっと待ってくれ」という意見のほうなのです、僕は。申し訳ありませんが。

 何か、途切れ途切れですけど、ここで終わりたいと思います。