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滋賀県協同組合講演会(2)

滋賀の生協 No.166(2014.3.31)
滋賀県協同組合講演会
次世代につなぐ協同組合
~七代目が語る二宮金次郎が遺したもの~

2014年3月1日(土)14:00~16:00 滋賀県農業教育情報センター研修室
主催 国際協同組合年(IYC)記念滋賀県協同組合協議会

講師 中桐 万里子さん
(親子をつなぐ学びのスペース「リレイト」代表、京都大学博士)

   地道な現実観察

 私たちの現実には目を覆いたくなるような「川」がいっぱい流れてきます。でも金次郎は「浮き上がってしまったら回転は終わってしまう。必ずどんな現実にも飛び込んで、知恵を絞ってほしい。必ず実りに向かうやり方があるはずだ」と考えたのです。敵を味方にという発想方法です。

  でも、現実を「知る」には特殊能力が必要なのではないかと感じたりもするわけです。秋茄子の味がわかるような特殊能力がなかったら一歩目から躓くのではないか。たまたまそんな変な能力を持っ ている人がいたから対策が打てただけだろうと、そんなイメージです。

  でも茄子農家に聞いてみたところ、「それは違う」と言われました。ハウス栽培でも夏茄子と秋茄子には味の違いがあるそうです。ましてや二百年も前の露地物の秋茄子と夏の茄子なら、味も皮の硬さも水分も甘味も色つやも種の多さも全く違ったと言われました。

  金次郎は、特殊能力とか才能を使ってくださいと言ったのではなく、誰もが少し注意をすれば見ることのできる地道な現実観察を「知る」と呼んだのです。

  これを証明するかのように、金次郎の日記には茄子の味のことだけではなく、いろいろなことが書かれていました。例えば、なぜ今年はまだ夏の前なのに、芋の根っこの伸び方がこんなに遅いのだろうか、菊の花が咲いているのだろうか、葉先が枯れてしまった植物をこんなに見かけるのだろうといった具合でした。農業を仕事にしている人間にとっては、どれもが現場で見かける他愛もないような小さなことでした。でも金次郎はこのことから大切なヒントを手に入れ、そして思い切った対策に向かって行った。それがあの奇跡の村を生み出す母体だったということです。

  金次郎の「知る」ということにはいくつかポイントがありますが、中でも、大切にしていたのは、「積小為大(せきしょういだい)」、小さなものを積んで大きなことを為そうということです。

 それは単純にコツコツやらなければ大きなことはできないという意味だけではありません。私たちが本当に大きな実り、大きな幸せに向かう時、大きな決断や判断に挑戦をしなければいけないとき、そのための大切な手掛かりは、小さな日常の中にこそあると、金次郎は考えたのです。「必ず宝の種は小さな日常の中にある」と言う言葉です。まさにあの偉業とも思えるような「植え替え」という決断が、実は茄子の味や、菊の花に支えられていたということであります。

   田からもの

 私が「宝物の種」という言葉を使っているのにも、実はちょっと意味があります。

 「宝物」この言葉を日本の古い辞書で調べてみると、「田から生まれるもの」と書いています。「宝物」の「た」は、「田圃」の「た」でありました。まさに田畑とともに、農耕民族として生きてきた、日本人らしい発想かもしれません。田圃の上で生まれるものと言えば、第一に作物ということです。この作物、私たちの命と直結するものでありながら、同時に生活に必要な様々なものと交換されます。つまり食、命を支えるものでありながら、同時に経済を支えるもの、そんな作物を人は「宝」と呼んできたわけです。

 ただし、田んぼの上で生まれるのは作物だけではありません。田んぼの上、そこでは人間たちが働く事を通してかく汗が生まれます。そして人と人の助け合いや絆が生まれます。さらに言えば、大地の力、太陽の力、雨の力、自然達の力を借りなければ生まれないのが田んぼです。

 同時に自然達の力だけでも生まれないのが田んぼなのです。金次郎は常々言いました。確かに自然は作物も育てるけど、雑草も育てる。雑草を抜き、世話をする、そこで働く人間がいてはじめて田んぼが生まれるのだというわけです。

 作物、人と人の絆、労働、人と自然の絆、あるいは文化や歴史やくらし、そうした様々なものが生まれるのが、田んぼの上であるということです。

 つまり、「宝」それは高価でなかなか手に入らないものではない。むしろ私たちの生活と密着している。くらしの中にある。働く場所にある。そんな現場にあるものこそ、古来日本人たちは「宝」と呼んできたということです。

   「知る」ということ

 金次郎自身は「知る」ということを大事にしよう。苦手なもの、やっかいなもの、ゴミみたいなもの、つまらないもの、様々私たちが目を背けたくなるものもあるけれど、そこに目を開けて現実に飛び込んでほしい、相手と向き合ってほしいというわけです。

 でも、「頭ではよくわかるけど、行動はしにくい」と思うかもしれません。やっぱり私たちは苦手な相手に飛び込むことは、自分が傷ついたり、我慢したり、忍耐したり、そんな「自分を犠牲にすることが必要なのではないか」「知るって所詮、自分が損をする作業ではないか」と思う。

 でも、金次郎は「知る。それは相手のための作業ではない。自分が楽になり、自分が幸せになり、自分が実りを手に入れるための、自分のための作業だ」と言うのです。

 「あんな奴がいなければ、こんなことさえ起こらなければ、あれさえなければ…」そうやって相手に毒を吐いているようでありながら、その毒は全部自分に溜まっていないだろうか。相手を傷つけている暴言のようでありながら、本当に傷ついて悲しくなっているのは自分自身なのではないだろうか。実は毒を吐くこと、傷つけること、それは全部自分が損をし、自分が疲れ果てていく、自分の希望が奪われていくことになるのではないかと言うわけです。

 だから、思い切ってどんな事態にも踏み込んで、そして、さあどうやって乗り越えてやろうと前向きに考える時こそ、私たちは思いがけない仲間に出会う、思いがけないアイデアが開ける。思いがけない底力が湧き起る。自分が楽になる道が、そこにあるのだと言うのです。

   自分の目と感覚で

 金次郎は「知る」ことで、私たちを楽にしてくれる二つのものが生まれると言います。

 一つ目に生まれるもの。それを「ヒント」というふうに呼びたいと思います。

 金次郎はいつでも思っていました。問題を解決する。そして私たちを実りへと導く答やヒントは、必ず現場にある。必ず相手自信がもっているのだということでした。だから彼は「困ったときほど現場へ戻れ」ということを、口を酸っぱくして言います。
金次郎が言おうとした「知る」というのは、インターネットや、専門書や、専門家から、知識や情報を集めなさいという意味ではありません。現場に戻って、何より確かで、何より頼りになる自らの目と感覚と経験で、現場を知ることをしてほしいと言うのです。金次郎もまたカレンダーから季節を知ることはしませんでした。「初夏の次には夏が来る」という常識から判断することもしなかった。あくまで茄子の味、菊の花、芋の根っこ、現場で見かけたものから判断をしていった。

 向き合ってみることで意外なヒントは目の前にあるのだということです。

   観察の「なんで」

 私は教育が専門分野ですが、いろいろな「川」に出合います。何回言っても同じ失敗を繰り返す子ども、宿題をしないとか、嘘をつくとか、暴言を吐くとか、そんな厄介な「川」が流れてくると、大人たちは浮き上がった「水車」になって回ろうとします。「嘘をついてはダメでしょう」「宿題をしなければダメでしょう」「何度同じ失敗ばかりするの」といった具合でしょうか。

 相手を知ろうともせず、いきなり浮き上がって回る。そんなことは不可能です。まずは観察から始めてください。飛び込んでください。状況把握にこそ対策の「ヒント」があるのです。

 具体的に言うと、「なんで」という言葉を上手に使えるようになるということです。私たちは何かを知ろうとするとき、よく「なんで」という言葉を使います。この「なんで」には大きく二種類あると、私は思っているのです。

 一つ目の「なんで」を私は「怒りのなんで」と呼んでいます。相手を怒り、責め立てるような「なんで」です。「なんでいうことを聞かないのだ」「なんで失敗ばかりするのだ」と怒って使う「なんで」です。実はこの「怒りのなんで」、それは、私たちが浮き上がった「水車」になっているサインです。自分こそが答を持っている。自分こそが正しい。そのことにこだわりを持ちすぎて相手を敵にしてしまっている「なんで」です。それは「なんで寒い夏なんかが来たのだ」「なんで植え替えなんかしなければいけないのだ」と言っている「なんで」と同じです。

 この「怒りのなんで」を「観察のなんで」に変換してみてください。一度心を落ち着けて、観察していてください。「なんで、こんなことが起きたのだろう」「なんで、こんなことを言うのだろう」と考えると、意外なものが見えてくるのではないか。

 金次郎は、「いつだって必ずヒントは目の前にある」「答えは目の前の相手こそがもっている」と呼びかけています。まさに「敵対から協同へ」「競争からwin-winへ」と変わっていく「ヒント」。それはそんな目の前の相手がもっているといった具合でしょうか。

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