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滋賀県協同組合講演会(4)

滋賀の生協 No.166(2014.3.31)
滋賀県協同組合講演会
次世代につなぐ協同組合
~七代目が語る二宮金次郎が遺したもの~

2014年3月1日(土)14:00~16:00 滋賀県農業教育情報センター研修室
主催 国際協同組合年(IYC)記念滋賀県協同組合協議会

講師 中桐 万里子さん
(親子をつなぐ学びのスペース「リレイト」代表、京都大学博士)

   心田と田畑の実り

 「報徳」、これを金次郎は様々な言葉で言い換えます。

例えば「水車」の下半分を「心の田を耕す場所」と言い、「至誠」という言葉でも言います。

 「心田を実らせ、誠実になって行く」。私たちは心田の豊かさに対して、いろいろなイメージを持つところですが、金次郎が使っていたのは、一貫した意味でした。それは「自分の幸せをどれだけ知っているか」「自分の仲間にどれだけ気付いているか」「受けていることを気付いているか」という点です。おなかの底から自分が受けているものに気付くとき、初めてその人が現場に出ようとするようになる。自分に与えられた場所で力を尽くそうとするようになる。

 金次郎に与えられていた現場は、田んぼや畑という場所でした。だから彼は、「心田が実れば必ず目の前の田畑が実る」という言い方をしました。人にはそれぞれの力を尽くすべき場所が与えられる。だから自らの誠実さを、行動で表していこうではないかと、彼は考えたのです。

 つまり、感動、誇り、希望、ワクワクドキドキ、使命感、責任感、いろいろなドラマ、それらを感じる人づくりこそが、目の前の現場を、地域を、社会を豊かにしていく力になるという、金次郎の村おこしの方法でした。村をおこすというとき、ついつい農地の開拓に目がいきますが、全ての村おこしは、人づくりから始めるというのが、彼の考えでした。

 「水車」の下半分の「心の田を耕す場所」は、心の問題や、人づくりであって、目に見えるものではありません。でも、目に見えないものこそが目に見える「水車」の上半分を豊かにしていく力になるものなのです。地域を活性化、村を活性化しようと思えば、村のためにという行動が必要です。でもその、村のためにという行動は、村のおかげでという気持ちを持っている人にしか生まれないものだということでしょうか。受けたことを知っているものだけが、初めて与えようとするようになるといったところです。

 これはまた、自分自身の幸せこそが原動力になって初めて、相手を豊かにしていくことができる といった考え方でもあります。そんな考え方を、金次郎は「報徳」と呼んでいるわけです。

   経営者と報徳

 この心田を道徳、田畑を経済ととらえる中、実は「報徳」という考え方は、教育界より経済界、経営陣たちに良く取り入れられていきます。日本の初期ビジネスの立ち上がりは、どことなく協同ということと似ていたのではないかと私は思うのです。現在、日本型経営という形で経営者の方々が大きく発想を転換させようとしていることもそのことに通じてきます。

 この近代をスタートさせ、支えてきた方々の中には、金次郎のこの「報徳」をモデルに企業を立ち上げた方もあったのです。例えば、先ほどの佐吉翁、松下幸之助さん、渋沢栄一さん、大原美術館を作られた大原孫三郎さんや、御木本パールを創業された御木本幸吉さん、様々です。現在では長野県にある「かんてんぱぱ」で有名な伊那食品の会長である塚越寛さん、JALの再建もなさった京セラ名誉会長の稲盛和夫さんもそのお一人とうかがっております。

 経営者たち、創業者たちに共通しているのは、単なる独りよがりな儲けということではなく、どこかに世のため人のためという要素をはらんでいたのではないかということです。

 中でも、松下幸之助さんのエピソードが、私はとても好きです。幸之助さんは採用面接の時、社長直々の最終面接でいつも聞いていた質問があるそうです。「あなた、運が良いですか?」という質問です。この質問に間違えたら絶対社員には採らなかったというのです。私はこれを聞いたとき、「ああ、金次郎っぽいなあ」と思いました。何と答えれば良かったのか。「はい、運が良いです」と即答をする人を社員にしたそうです。

 幸之助さんの真意はよくわかりませんが、私はこう思います。「あなたは運が良いですか?」とは、あなたはたった一人でここまで来たのではないと知っていますか?あなたの心田は豊かに実っていますか?そしてこれからは、社会への恩返しとして松下で働いてくれますか?あなたは、「見返り」ではなく「報徳」で働く事が出来る人ですか?という、質問だったのではないかなと思うのです。

 しかし、それはきれいごとであって、やっぱり世の中には運が悪い人はいるではないかと思う人もいるでしょう。幸之助さんはそれにも答えられていたのです。「自分の会社が大成功したのは三つの運の良さだった」と、いつもお話になっていたと言います。

 一つ目の運の良さは、貧乏人の家の子どもだったおかげだったと言うのです。貧乏人の子どもだったから、働くことが楽しかったからだと言います。

 二つ目は、自分が病弱だったおかげでもあると言います。体が弱かったから仲間たちをつくり、任せなければいけなかった。仲間に任せたから、ここまで大きな会社になったのだというのです。

 そして三つ目、何と言っても学歴がなかったのはラッキーだった。学歴がなかったおかげで、人の言うことに素直に耳が傾けられた。興味や関心を一生持ち続けることができた。これこそ松下が大成功した秘訣だったと言ったそうです。

 どれ一つとってもラッキーと言えるものはないのです。でも、幸之助さんはどんな「川」が流れてきても、浮き上がらなかった人。必ずそれに飛び込み、そしてパワーに転換した方だった。運が良いかどうか。そんな心田を耕すことができるのは、自分の心ひとつなのかも知れません。

 幸之助さんや金次郎がなぜあんなに「give」の達人、世のため人のために、そしてどんなものとも共通に手を結び、絆を結んでいこうと実践に向かったのか。彼らの行動力、発信力、実行力の源は、彼らの気付きの力、受取りの力、受信力ではなかったのか。「take」の達人であったからこそ、実践へと向かったのではないかということです。「take」の達人、それは幸せ探しの達人とか、感動屋とか、運が良いと思えるとか、ラッキーだと感じられるとか、そのように日常の中の楽しみを味わい、見つけ出すことが上手な人だったという具合かも知れません。

   想いを受ける

 教育の世界では有名な実験があります。それは「フリードリヒ大王の実験」と呼ばれています。

 昔々、フリードリヒ大王という王様が、あるとき「人間の子どもたちは言葉を教えなかったら、何語を話し始めるのだろうか」とふと思います。そこで世界中の奴隷たちの乳児が集められ、一人ひとりに乳母がつけられました。栄養は十分に足りるようにと配慮されましたが、「決して言語を教えてはいけない」「話しかけてはいけない」という実験を行ったのです。この実験はどのような結末を見るのか。実は全ての子どもが、乳児の段階で死亡をしてしまったと言うのです。

 人間は体のエネルギーだけでは生きてはいけない。誰かとの関わり、言葉や想いを受けることでしか生きていくことができないということを象徴している実験のようにも思えます。

 私たちがなぜ「あげよう」「与えよう」と立ち上がり、行動に向かうのか。それは私たちが何気なく、気付きもせずに受けてきているものに気付くことからかも知れません。私たちは感動を受け取り、幸せを受け取る側からすべてをスタートさせ、その上で今度は、私たちが感動や幸せを生み出し、与える側になって行きましょうと、金次郎は呼び掛けています。

 金次郎自身が「協同」という言葉を使ったわけではないかもしれません。しかしこの「報徳」という発想こそ、まさに「協同組合」という発想へと受け継がれていくわけです。

   一人ひとりが主役

 でも、「受けだけで終わったら、もっと幸せなのになあ」と、ちょっとは思うかもしれません。しかし金次郎は呼び掛けます。本当の幸せがどこにあるかを考えてください。私たちが本当に誇らしい感動を手に入れるのは「take」の場所ではなく、「give」の場所なのではないだろうか。誰かに助けてもらうことももちろんうれしいです。でも、誰かの役に立つことができたとき、私たちは生きている実感や、誇りや手ごたえを感じるのではないだろうか。「take」はハッピー、「give」はもっとハッピーだと考えていたのが、金次郎だったわけです。

 一人ひとりが主人公として、一歩前に足を踏み出すことをやめないでほしい。「受けよう」とするのではなく、「与えよう」という発想を持ってほしいと言うのです。

 ある方はこれを「と」から「の」に変わっていくことだと言います。「私と家族」「私と地域」「私と社会」「私と組織」の「と」は、他人事で脇役です。これを「の」に変えると、主人公の景色が見えてくる。「私の家族」「私の地域」「私の組織」、そんなふうに考えられたとき、進むべき道が見えてくるのではないかと言うのです。

   幸福の永続と発展

 そしてこの「報徳」というモデルにとって大切な特徴、それが未来に向かっているという点でした。「水車」にはいつだって時間が流れていることを忘れないでほしいと金次郎は言うのです。「水車」は「川」に押し流されてまわりますが、もう一回「川」に戻ってくるときに、「川」の水は新しくなっています。だから私たちは親たち、先人、先輩から受けたものを、次の誰かに返してほしい。未来に返すことでこそ、幸せは広がるのだというのです。

 一粒の種をもらったとき、食べてしまえば自分で終わり。でもその種を蒔いて育てれば、必ず一粒には万倍の実りが生まれるのだというわけです。未来に返すことでこそ、繁栄し、拡大していくのだと考えていたのが、金次郎の考え方です。だからこそ「報徳」。「恩返し」ではなく「恩送り」と呼ぶべきなのではないだろうかと言う方もいらっしゃいました。

 最後になりますが、私たち、まずは一歩を踏み出すためにも「take」の達人になっていくということが、とても大事。日常に埋もれがちな幸せのため、発掘をはじめましょう。私たちが「take」の達人になれば、うれしい、楽しいときに使う言葉「ありがとう」という言葉が生まれるのではないかと思っています。

 ある方が「ありがとう」の反対語、それは「あたりまえ」という言葉ではないだろうかと言われました。「ただ見る」世界では、ものは普通に「あたりまえ」にしか見えません。でも、「よく見る」世界では「有難さ」、あることの難しさや、奇跡、キラキラとした宝物の輝きに出合うのではないかと。「ありがとう探し」の達人、それは私を豊かに、そして相手を豊かにする一歩。それを生み出す原動力になるのではないかなと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

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