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平和記念講演「核兵器廃絶と原発問題について」(2)

滋賀の生協 No.158(2012.3.30)
平和記念講演
「核兵器廃絶と原発問題について」

2011年12月15日(木) ピアザ淡海

安斎科学・平和事務所所長 立命館大学名誉教授
安斎 育郎氏

主催:ピースアクション2011・しが実行委員会

   科学者の夢と社会的責任

 一九六〇年に東京大学に入って、一九六二年の秋、三年からの専門を決めるタイミングで新しく原子力工学科ができ、学生一五人を募集することになったわけです。

 僕の頭の中の原子力のイメージは、正力松太郎氏に乗せられていたのです。一九五九年に東京で開かれた国際見本市で、アメリカの本物の原子炉が展示されたのです。それを見て「面白そうだし、次の時代を担うエネルギー源かもしれない」という思いを抱いていました。それで応募したら無事に採用されたわけです。だから最初原子力工学科に入った時は、原子力に夢も希望も抱いていました。

 一期生一五人の中で、やがて原発反対運動に身を染めるにいたったのは私一人でしたが、卒業論文のテーマは「原子力施設の災害防止に関する研究」。「原子力施設がとんでもない事故を起こした時に、どんな災害が起こるか」「それを防ぐにはどうしたらいいか」ということでした。それは「日本公衆衛生学」という雑誌に二回にわけて掲載されました。

 そのころから原子力村の中心部よりは、村はずれに自ら外れて行ったのかもしれません。中心部は原子炉工学とか、核燃料工学という原子力を積極的に担っていく分野に行った人が多かったけれども、僕は放射線防護学を専門に選びました。卒業した後大学院に行って、修士課程は尿中のウランの分析法の開発。これは日本原子力学会誌に論文を出したのですけれども、その頃もまだ原子力に夢も希望も持っていました。

 一九六五年、「科学者の国会」といわれていた公的代表機関、「科学者の社会的責任を考える日本科学者会議」という集団が作られます。なぜ科学者の国会と言われたかというと、当時日本の学術分野を、医学とか工学とか農学とか経済学とか七つに分けて、各分野から三〇人の科学者を議員として選出しました。選び方も全国約三〇万人の科学者が、全国区と地方区に分かれて候補者を出し、直接投票によって選んだのです。

 東京大学でも「分会を作ろう」となって、僕はほどなく入会しました。入会したとたんに日本科学者会議の「原子力問題研究委員会」の委員長として常任幹事になったのです。

 なってみると、政府に公開質問や申し入れ書をするためには、原子力工学のエンジニアリングの勉強だけでは不足です。原発をめぐるあらゆる勉強をしなければならない。それでそういう勉強をしていると、日本中の原発立地点から講演の依頼がくる。講演に行くと住民に徹底して鍛えられるのです。

 一九六九年から七〇年に、北海道岩内の漁民たちに呼ばれて講演に行きました。質疑応答の時間になると、「岩内のホタテ養殖事業はどうなるのか」など、私の専門分野なんか全く無視した質問をしてきます。知らない事を知らないと答えるのは科学者の誠実な姿と言えなくもないが、地元住民は非常にがっかりします。住民は「わが町に原発がくるとどんな問題が起こるか」を総合的に知りたいわけです。それで「住民にどんな質問をされても答えられるようにしよう」と思って、政治、経済、社会、文化、科学技術全般にわたる勉強をやった。徹底的に住民に鍛えられました。

 その集大成が一九七二年一二月。日本学術会議が初めて原発問題シンポジウムを開き、三二歳の僕が基調講演を頼まれました。

 その時の講演は、「安全性が保たれているか」とか「軍事利用の恐れがないか」とか「六項目の点検基準」を定義して、この定義に照らして「日本の原発政策は落第である」と烙印を押したわけです。しかも、今度の福島の事故のようなことが起こったらどうなるかということも、すでに三九年前に論じてあります。

   三九年前の警鐘と原発事故

 今度の地震はマグニチュード九、阪神淡路大震災の三五〇倍。関東大震災の四五倍です。

 福島原発は、揺れを感知すると、酵素とかカドミウムが入っている制御棒が下から入って、核分裂連鎖反応の仲立ちをしている中性子を吸収し、核分裂連鎖反応は終わった。核分裂連鎖反応が終われば、新たな発熱も終わるかというと、それまでの核分裂反応の結果、核燃料の中には大量の放射性廃棄物がたまっていて、放っておいても放射線を出す。それが熱エネルギーになって、冷やし続けない限り燃料が溶けてしまう。だから原子炉が止まってもずっと冷やし続けなければいけない。

 冷やし続けるために、緊急炉心冷却系ECCSというのが働くのですが、その為にはモーターを回して水を巡回させなければいけない。そのモーターを回す電源は、東北電力から買っていたのですけれども、津波で送電線が壊れて電源が途絶えたわけです。だから慌てて自家発電装置(ディーゼル発電装置)をまわし始めた。しかし、ディーゼル発電機には燃料が必要です。その燃料のタンクが津波で全部水没するなどしてだめになり、発電所に電気がないという状態になったわけです。だから冷やし続けなければいけないのに、冷やすための水を還流させる動力がなくなったために解けて流れます。

 ごく最近わかってきたところによると、一号炉の場合には原子力圧力容器の一六センチメートルの鋼鉄も溶かして、その下の格納容器の下のコンクリートもどんどん溶かし込んでいて六五センチメートルくらいまで沈みこみ、さらに発熱を続けています。

 普通の火災は水をかけると温度が下がって、発火点以下の温度になれば発熱反応、燃焼反応が止まるわけです。それから酸素を遮断しても燃焼反応は止まります。

 しかし、放射能というのは、原子の中心にある原子核の中に陽子と中性子が何個ずつあるかによって決まる性質であって、水をかけようが、何しようが、原子核の中は一切影響を受けないので、今後それぞれの放射性物質が減衰するペースで減っていくしかない。

 セシウム一三七だと十分の一に減るのに百年かかります。プルトニウム二三九ならば半分に減るのに二万四千四百年かかる。ウラン二三五なら半分に減るのに七億一千万年かかる。ウラン二三八なら四五億年かかる。そういうペースでひたすら時間を待つしかない。

 それでもなぜ、水を掛けているかというと、放っておくとドロドロに溶けてガス状になり、大量の放射能が環境に出てくるから、とりあえず溶けないようにしているだけです。

 一号炉では下に溶け落ちたものがどういう状態になっているのかもわからない。けれども下にたまっているという状態です。非常にやっかいな事態が起こっています。

 そういう事態になった時に「冷やし続けるための電源が本当に確保できるか」というのを、三九年前の学術会議の演説でも言ったのです。そのECCSの緊急炉心冷却系が、そのころのアメリカの実験でも失敗しているし、だめなんじゃないかと指摘したのです。三二歳の時に、国家と電力主義にけんかを売ったわけです。

   推進派の茶番と反対派迫害

 翌一九七三年には、衆議院の科学技術振興対策特別委員会が十人の学者を呼んで「原発政策についてどう考えるか意見を陳べよ」と言うので、そこでも批判した。東大の文部教官助手という国家公務員が、国権の最高機関で、国策をこっぴどく批判するのだから、ただではすまない。反国家的なイデオローグとして一躍有名になるわけです。

 その年の九月一八日と一九日、福島市で、初めて「原発に関する住民参加型の公聴会」が開かれました。それまでに作った原発は公聴会すら開かれていなかった。

 しかし公聴会は、茶番劇そのものでした。まず、公聴会でしゃべるための事前申し込みで、原発反対派は異なる意見の六十人が応募しました。ところが原発推進派は何千人と応募します。聞く方も、我々は数百人申し込んだが、推進派は二万数千人。それも、住民台帳から勝手に名前を盗用しため、申し込みしていない人にも当選通知が届きばれてしまった。

 この公聴会で、「原発放射能恐れるに足らず」と演説を打ったのです。「今年の高校野球どこが優勝したかご存知か」と。一九七三年は広島商業が優勝したのです。「あの原爆被害から二十八年。草木も生えないと言われた広島で生まれ育った子どもたちが元気に高校球児となって、全国制覇するに至った。だから原爆放射能なんて恐れるに足らない」という演説でした。

 一方で、原発推進の茶番劇を演出しながら、原発に批判的な人間は徹底的に締め出していく。そういう時代でした。

 安斎育郎も研究室の中でアカデミックハラスメントにあいます。

 教育業務を一切はずされ、研究費が0円になり、研究費用は教授の許可制になる。「その研究を発表してはいけない」と無視される。「研究室で朝から夕方まで口をきいてはいけない」「一緒に並んで歩いてはいけない」「一緒に飯食ってもいけない」…。

 僕の隣の席は、東京電力から派遣された医者のT君でしたが、辞めていく時に「僕の役割は安斎さんを偵察する係でした」と言いました。世間ではスパイと言います。

 講演に行けば尾行してきて、一部始終録音し、その日のうちに主任教授に届ける。だから新潟で講演して翌日に大学へ行くと主任教授から「昨日こういう講演をしただろう、けしからん」と罵倒される。朝行っても誰とも口を利かない日々がずっと続いたのです。

 特に一九七三年から七九年の三月二八日までがひどかった。七九年三月二八日は、スリーマイル島原発が事故を起こした日です。原発の四六%の燃料が解け落ちるような事故でした。それまでいじめていた主任教授も「安斎が原発は危ないと言っていたのも、あながち嘘ではないらしい」と気がついて、「君と僕とは生涯よい論敵でありたい」などと言い出しました。結局八六年三月までの足掛け一七年間、助手のまま冷や飯を食わされたのです。

 研究費のない中で、誰も思いつかない研究をやっていたものだから、若手の研究者には結構人気があって学会の理事の選挙ではいつも上位で当選し、七五~六年には学会の三役をやっていました。会長、副会長は原発推進派がなる。三番目のポストの庶務理事兼事務局長を三五、六歳の私がやっていました。「原子力工業」という雑誌の編集後記に、「会長が推進派で庶務理事が反対派で大丈夫なのか」というコメントが出たくらいでした。

   アメリカの戦略と原発促進翼賛体制

 戦争があった頃、日本は水力発電がほとんどで、電力会社は、「日本発送電株式会社」しかなかった。その会社が電気を送り、送られてきた電力を一軒一軒に配電する会社が九つあったのですが、日本を占領したアメリカ軍が地域分割して九つの電力会社にしました。

 表向きの理由は、独占的な企業を許しておくと、軍国主義と結びつき、また戦争への道を歩むかもしれないという、「財閥解体」、「経済の民主化」の看板です。

 ところが根はまったく違う。九つの電力会社の受け持ち範囲を決めると、その中で発電し、送電しなければならない。戦後復興の過程で、大人口稠密(ちゅうみつ)地帯に大規模な電力が必要になっても、決められた範囲の中には水力発電を賄える水力資源はない。水力資源は中部山岳地帯に固まっているから。ないなら、必要な電力を必要とする都市部に隣接して火力発電所を作らざるを得ません。

 最初の頃は日本でとれた石炭を火力発電に使うことも認められていました。しかし、一九五〇年代には、日本の石炭産業は結構能力があったにもかかわらず、どんどんつぶされていって、石炭から石油火力への転換がなされていきます。

 そうして日本の電力生産は、アメリカ型の火力発電になっていく。その延長線上で、今五四基の原発のノウハウの大部分をアメリカが持っている。見事にGEとウェスティングハウスで市場二分割して、日本のエネルギー産業を支配下に治めた。だから、トラブルが起こると、「結局GEにきかなきゃわからない」という事態がずっと続いているわけです

 この国には「国民総動員原発促進翼賛体制」というのがあります。その翼賛体制とは、(1)アメリカの対日エネルギー戦略、(2)それを忠実に受け入れた日本政府、(3)その日本政府と結びついて原発事業に邁進して行った電力資本、(4)その安全性を保障する官僚組織、(5)官僚組織に安全であるという作文を提出する「御用学者」、(6)安全神話を国民に広げるマスコミ、(7)原発を呼び込む自治体、(8)その自治体の呼び込みの民主的体裁を整える原発推進住民組織。この八つの要因が、批判を徹底的に締め出し、「安全」「安全」の一点張りでがけっぷちに車を走らせ、ついにがけから落っこちるような体制を作ってきたのです。

 今福島原発の放射能に関心がいっているが、あえて言うなら、放射能だけに矮小化させてはならないのです。歴史的な政治、経済、社会、文化、科学技術全般にわたるこの国の体質そのものを変えていかないと、似たようなことが今後起こらないとは言えないのです。

   産地ではなく実体で恐れる

 私は反対運動を四〇年以上やっていながら、結局このような破局的な事故を防げなかった。三月一一日、事故の知らせを聞いた瞬間「申し訳ない」と思いました。

 当日の夕方、「事故当事者に言いたいことないか」との共同通信の取材に、「隠すな。嘘つくな。故意に過小評価するな」と言いました。「故意に」と言うのは、不確かな情報下での「結果としての過小評価」はありえるが、「わざと過小評価するな」ということです。

 一号炉なんか燃料が溶け落ちてドロドロになっているみたいだけれど、それがどういう状況かよくわからない。原発事故の一番やっかいな所は、現場を見に行けないということです。だから推定しかない。もしかすると溶けた燃料が下の方で薄皮饅頭みたいに、表面は水で冷やされて金属状になっているけれども、中はマグマ状態の可能性もあるわけです。そこに余震がおそってきて、その薄皮饅頭がひび割れしたりすると、水と接触して急速に水蒸気爆発を起こす。するとまたやっかいな放射能漏れが起こります。

 今福島に降り積もっている放射能は、三月一五日くらいに桁外れの放射能がドバッと出て、その後、雨と風に乗って日々新たに降ってきている量は極わずかなのです。だから表層土を数センチ取り除けば、地上の表面の放射線の濃度は激減するのです。

 五月に、福島の保育園行って、ガイガーカウンターを子どもたちの生殖腺あたり、地上三〇センチメートルに固定して、その下わずか約二センチメートルの表層土を、直径一メートル、二メートルと削り取っていくと、放射線濃度がどんどん減っていくわけです。

 福島の汚染した土を持ってきて大量の水をかけて洗い流してみたのですが、ほとんどまったく溶けないのです。福島の土は粘土質で、粒子がものすごく細かい。粒子が細かいということは、表面積がすごく大きいということです。粒子の表面を電子顕微鏡でみると非常に毳毳(けばけば)しているから、セシウムなんかを引っ掛けて水を流した位ではなかなか流れない。しかもマイナスの電荷を帯びているので、プラスの電荷を帯びたセシウム一三七なんかをひきつけます。

 だから今年福島で採れた米の九九%以上は、一キロあたり百ベクレル以下と、予想外に低かった。田んぼは汚染しているけれども、水に溶けないから稲も吸い上げようがない。逆に言うと、チェルノブイリでは水に溶けてきたからひまわりが吸い上げてくれたけれども、福島では、ひまわり除染作戦もだめです。福島でも二本松なんかは砂の成分が多いので稲の放射能が若干高かった。そういう事情もあるので「福島といったら怖い」と考えないでもらいたい。産地を恐れるのではなくて、実態で恐れてほしいと思っているのです。

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