滋賀の生協 No.158(2012.3.30) |
平和記念講演 「核兵器廃絶と原発問題について」 2011年12月15日(木) ピアザ淡海 安斎科学・平和事務所所長 立命館大学名誉教授 安斎 育郎氏 主催:ピースアクション2011・しが実行委員会 |
百年単位で放射能と向き合う時代 |
私は、工学部の原子力工学科の第一期生として、この国の原子力工学科のスタートラインに居た人間でした。それにもかかわらず卒業して五年後から原発に批判的になって、四〇年以上原発反対運動に身を寄せてきた立場にあります。この厄介な出来事をくい止める事が出来なかった。非常に申し訳ないと思っています。 福島の原発を廃炉処分するには、政府は「三〇年以上かかる」といっていますけれども、少なくても五〇年以上かかると思います。セシウム一三七が十分の一に減るのに百年かかるわけです。何十年、何百年単位で我々は放射能と向き合わなければいけない。生易しい事態ではないということです。 今日は、なぜこんなことになったのかを、核兵器の問題と重ね合わせ、政治・経済・文化・社会科学・技術の全面に渡って話をしたいと思います。 |
原爆はなぜ投下されたか |
日本人が最初に核の被害を被ったのは、一九四五年の広島・長崎です。あの時の核地獄をありのまま世界に伝えていれば、「核兵器は禁止しよう」となった可能性が高いと思います。しかし、その核兵器を使ったアメリカが戦後の日本を支配し、核地獄の報道を禁止した。その結果、世界は核兵器を十分認識することなく戦後世界に突入しました。 なぜ広島・長崎に開発されたばかりの核兵器が投下されたのか。その背景に、当時のアメリカとソ連との、戦後世界をめぐる支配の競争があります。 第二次世界大戦は一九三九年の九月一日、ドイツが隣国のポーランドに侵入したヨーロッパ戦争として始まりました。一九四一年一二月八日、日本軍のマレー半島上陸作戦の一時間後の真珠湾攻撃によって、アメリカ及びイギリスとも戦争状態に入って、ヨーロッパで始まった大戦が第二次世界大戦になったわけです。 五千万人が死んだという史上最悪の戦争であったわけですけど、日本の威勢がよかったのは最初の真珠湾攻撃の時だけで、「ミッドウェー海戦」を境に負け戦に転じていきます。 一九四四年になると本格的に空襲が始まります。グァム、サイパン、テニアンなどの島々をアメリカが支配し、そこから発進したBー二九が日本を爆撃して戻ってこられるようになった。そして空襲の本格化は一九四四年十月十日。沖縄の那覇が空襲を受けた。「十・十那覇空襲」と呼ばれています。そこから、段々本土にも展開されていきます。 その象徴が、一九四五年三月十日の東京大空襲です。広島の原爆では、その年の暮れまでの一四〇日あまりの間に一四万人が殺されたわけですが、東京大空襲は一晩で十万ないし一二万人が殺されるという、世界の爆撃史上非常に荒々しい爆撃でした。しかしそれでも日本は戦争をやめなかった。 その頃、連合軍側はもう「戦争の終わらせ方」を考えていて、一九四五年二月、ソ連のヤルタというリゾート地で「ヤルタ会談」を開きました。その時、アメリカとソ連の間で密約が交わされます。ヒットラーは程なく敗北するだろうが、それでも日本は戦い続けるだろう。日本には「関東軍」という手強い軍があるので、アメリカだけでは被害が大きくなる可能性がある。「もしドイツが降伏したら、それから三ヶ月以内にソ連も日本に宣戦布告をしてほしい」と要請し、この密約が成り立つわけです。 案の定、五月八日にドイツが敗北。すぐ日本を敗北に導く手だてを相談する「ポツダム会談」が開かれる手筈でしたが、開かれたのは七月一七日。その前日の七月一六日、アメリカはニューメキシコ州アラモゴードという砂漠地帯で、人類最初の核実験を行い、長崎に投下させたのと同じプルトニウム原爆を成功させます。つまり、アメリカは、世界を支配する強力な武器を持った上で、ベルリン郊外での「ポツダム会談」に臨んだわけです。 その時変なことが起こりました。七月一五日、ソ連のスターリンがアメリカを表敬訪問し、「八月一五日までには日本に宣戦布告をするだろう」と予告をしたのです。普通戦術上重要なことは言わないものです。さらに翌一六日、アメリカ代表がソ連に返礼で訪れた際に、スターリンはもっと重大なことを打ち明けた。「日本の天皇から、戦争をやめたいのでソ連が仲介の労をとってくれないかという相談がきている」と言ったのです。 アメリカにとって、ソ連が働いて日本が敗北に導かれるなんて最悪の事態です。アメリカは、核兵器をできるだけ早く使わなければならない事態となりました。 七月の後半、原爆投下の候補地選びを始め、第一候補が京都の梅小路機関車庫。機関車庫には、蒸気機関車を別の線路に移すための回転テーブルみたいなのがあって、そのテーブルが上空一万メートルからでもよく見える。しかも京都盆地のど真ん中にあるというこが候補地の理由です。第二候補が広島。日清戦争の時、広島には帝国議会仮議事堂があり、天皇の大本営もありました。それ以来西日本最大の軍都として栄えていました。原爆の威力を確かめるには効果的だったのです。そして第三候補が小倉、第四候補が新潟でした。 その候補の中から、京都は外されました。日本文化に造詣の深いヘンリー・スティムソンという陸軍長官が、「京都のような日本文化の集積地に原爆を落とすことは避けたほうが良い」という主張に基づいて外されたと言われています。しかし、それはアメリカの宣伝に乗った見方で、本当は、古い天皇の都に原爆を落とすことは、天皇崇拝の日本国民の心をつかみ取れず、ソ連に向かせてしまうだろうという、戦略的配慮からでした。 第四候補の新潟は、テニアン環礁からぎりぎり往復八千キロで余裕がないこと、町の規模が小さすぎて原爆の威力を確かめるには不足であるということで外されます。その他、大阪とか大牟田も候補に上りましたが、結局採用されませんでした。 そして、八月二日に第一候補広島、第二候補小倉、第三候補長崎という順位が確定します。「天候が許す限りできるだけ早くこの計画に乗っ取って原爆を使うべきだ」ということで、四日後の八月六日、原爆が広島に投下されて最終的に核地獄が現れました。朝八時一五分。九千メートル上空から、投下後四三秒かけて原爆が落ちてくる間にも風に流されない、朝凪の時間帯。通勤途上で人々が最も屋外に出ている時間帯でした。 それを聞いてソ連が焦ります。「ソ連が出るまでに、アメリカの核兵器で日本が敗北に導かれるかもしれない」ということで、日本に宣戦布告の予定日、八月一五日を前倒しした八月十一日、さらに八月八日の夜中の十一時に、日本に対して宣戦布告をした。「戦争状態の下で敵にもならないし、味方にもならない」という「日ソ中立条約」を破って、八月九日午前〇時に満州地方から侵攻してきます。 これを聞いて、今度はアメリカが焦ります。「ソ連も手柄を立てる形で、日本が敗北に導かれる可能性がある」というので、そのわずか二時間五十分後に、第二の原爆をのせた「ボックスカー」というB-二九が、第二候補の小倉に向かって発進していく。そして朝九時四五分、原爆投下体制に入った。しかし、もともと進入経路を失敗した事と、前日の八幡爆撃による火災の煙で投下目標が目で確認できないという事で、三回廻ってあきらめます。そして、第三候補の長崎に向かい、朝凪の時間としてはぎりぎりの十一時二分、長崎も曇っていたが、浦上天主堂の上の雲の切れ目から長崎を確認して原爆を投下しました。 原爆を投下したのは確かにアメリカですが、開発したての原爆を相次いで投下するに至った背景には、大戦後の世界支配をめぐる米ソの凌ぎ合い、政治思想があったのです。 核兵器はもちろん廃絶する必要があります。しかし、「力によって世界を支配する」という政治思想も廃絶しないと、仮に核兵器はなくなっても、もっとやっかいな兵器が登場するということになりかねません。 |
武力による世界支配「核軍備競争」 |
アメリカが広島・長崎の核兵器地獄の報道を厳しく禁止したため、世界は核兵器を拒否しないまま、戦後を迎えることとなりました。 一九四六年七月一日、アメリカはビキニ環礁で戦後最初の原爆実験を行いました。その時、環礁周辺の海に日本の戦艦などを浮かべ、どのように撃沈されるか、世界中から報道関係者を呼んでデモンストレーションを行いました。 アメリカが戦後核実験を始めた当時、「こんなややこしいものを持てる国は、今後一五年くらい出ないだろう」と思っていたら、わずか三年後の一九四九年八月、ソ連がセミパラチンスクで最初の核実験に成功させたのです。 同じ一九四九年には中国に共産党が支配する国家が成立し、原爆の千倍も強力な水爆の開発に突き進んで行き、ソ連も時を同じくして水爆開発にのめりこんでいきました。 一九五〇年台になると、米ソ相次いで水爆の開発に成功します。一九五二年にソ連がセミパラチンスクで、アメリカは一九五四年三月~五月にアメリカが水爆実験をビキニ環礁でやりました。一番有名なのが三月一日の「ブラボー爆発」という水爆実験で、一発の威力が一五メガトン。TNT火薬に換算すると千五百万トンに相当します。 それでびっくりしていたら、その七年後の一九六一年に、ソ連が「ツァーリ・ボンバ(爆弾の皇帝)」という五十メガトン、第二次世界大戦一七回分という核実験をノヴァヤゼムリャでしました。その時に発生した衝撃波が地球を三回廻りました。 一九五〇年台から六〇年台にかけては、アメリカとソ連が世界を武力によって世界を支配する核軍備競争の真っ只中で、その時代に原発は開発されました。 |
国家との結合が前提の原発産業 |
原発を最初に実用化したのは、一九五四年。ビキニ水爆実験の三ヶ月後の六月でした。開発したのはソ連です。モスクワ郊外のオブニンスクというところに五千キロワットの実用規模の原子力発電所を作りました。 当時、アメリカは「原子力法」で、民間企業の原子力分野参入を禁止していました。「このままだと世界中の原発市場がソ連製に占められかねない」ということで、二ヵ月後「原子力法」を変えて民間企業も参入できるようにして、アメリカ型の原発開発を大慌てで進めます。原子力潜水艦に乗せる予定だったウェスティングハウス社の原子炉を使って、シッピングポート原子力発電所を作ったのです。安全性は二の次だったわけです。 それでもやはり不安なので、アメリカは「WASH七四〇(ブルックヘブンレポート)」を発表しました。原発が大事故を起こした時の被害を理論的に推測した報告書です。それによると死者三千四百人、障害四万七千人、財産損害七十億ドル(当時換算で二兆五千億円)、当時の日本の国家予算の二倍を超える損害が出るということが明らかになったのです。アメリカ政府も「それでは民間企業は手を出さないだろう」ということで、六ヶ月後に「プライス・アンダーソン法」という原子力損害賠償保障制度が作られます。「一〇二億ドルを超えたら、損害は全部国家が見る」と民間企業に道を開いたわけです。 だから原発という産業は、一電力資本の手に負えるような代物ではないということは、出だしからわかっていました。国家と電力資本が結合しない限り成立しない電力産業なのです。 |
アメリカ型原発の日本導入の経緯 |
日本も、その四年後一九六一年に「原子力損害賠償法」を作って、アメリカ型の原発を引き受けていきます。日本の原発をアメリカ化させたのは中曽根康弘氏(当時改進党の大臣)です。彼が保守三党を纏め上げて、急遽原子力築造予算二億三千五百万円を、補正予算として国会を通していきました。この二億三千五百万円という数字は、「ウラン二三五」から取ったといういい加減なことなのです。 一九五三年、中曽根氏はキッシンジャー大統領補佐官が中心になって開かれたハーバード大学での国際問題セミナーに招かれ、「アメリカ型エネルギー戦略」を散々吹き込まれ、「日本も原発路線を歩む」という決意を持って帰国しました。 翌、一九五四年二月二七日、日本の科学者の国会といわれた「日本学術会議」は「日本の原子力研究はいかにあるべきか」を公聴会で議論しました。学者たちは、原子力の開発研究に慎重で、中曽根氏には「ぐずぐずしている」と見えた。そこで、原子力築造予算という札束で、学者の頬をひっぱたくようにして、アメリカ型原発を導入していくのです。 国民に「原発は次の世代を担うエネルギー源である」という宣伝係が、正力松太郎という読売新聞社の社主です。正力松太郎氏は「核エネルギーは、核兵器に使われるだけではなくて、平和利用できるのだという、「ATOMS FOR PEACE(アトムス フォー ピース)」を大宣伝して、国民の認識を抜本的に改めようとしました。そして「原子力平和利用博覧会」を日本全国で次々開いて、何万人という観客動員に成功していくのです。中曽根氏と正力氏はアメリカの国務省などと連携しながら、そういう戦略を展開していったのです。 だから日本は、アメリカの核エネルギー戦略を忠実に受け入れた政府と電力企業が結びついて、原発へ原発へと進んでいく母体をその時に築いたわけです。 それに加えて、一九七三年に田中角栄内閣が、「電源開発促進税法」を作った。我々は千kWh(キロワットアワー)使うごとに、電気料金の形で三七五円の「電源開発促進税」をとられているのです。一年間に約三千五百億円国庫に収まります。 その収入を基に、原発を引き受けてくれた自治体には特別交付金が、三年間にわたって数十億円落ちている。だから地元の地域開発、展望があまりないところ、過疎の村や町はこぞって原発を誘致する方向にいったわけです。 我々はそれを「原発の引越しそば」と呼んでいます。食べてみたら以外においしい。しかし、三年経つと来なくなってしまう。その間に道路や公民館を作っても、三年経てば道路は壊れる。公民館も運営費が必要なので「もう一回引越しそばを食べようか」となって、二基目を呼ぶ。大体一基呼んだところは四基まで呼ぶような仕掛けになっているのです。 しかもこの国は民主主義の国となっているので、「自治体ではなくて、住民が呼んだ」と言う必要があります。ですから、住民を原発誘致に誘う組織が地域に作られていきます。 原発推進住民組織。今事故が進行中の福島県双葉郡にも組織があります。そういう組織ができると、地域社会の協力体制にも亀裂が入っていくのです。「反対派と一緒に神輿が担げるか」ということで、文化の保存も難しくなるという状況が起こっていくわけです。 |