滋賀の生協 No.164(2013.12.20) |
二〇一三年度憲法問題学習会 憲法は何のためにあるのか ~九六条問題と平和・人権~ 2013年10月12日(土) コープしが生協会館生活文化ホール 講師 土井 裕明氏 (弁護士、滋賀弁護士九条の会代表、NPO法人消費者ネット・しが理事長) |
私は、JR大津の駅前で法律事務所をやっています。普段は消費者問題の話をすることが多く、決して憲法の専門家ではないです。だけど、弁護士も普通の一般市民に比べれば憲法の専門家であることは間違いないので、今日は難しい話はなるべくしないで、いくつか覚えて帰っていただきたいポイントがありますので、あまり欲張らないでお話をしたいと思います。 |
法治主義以前 |
最初に「立憲主義」と「法の支配」、それから「法治主義」「法治国家」、そういう言葉についてお話ししたいと思います。 まだ王様が人々を支配して治めていた。そういう何百年も前の時代を想定してほしいのですけど、「国家権力」を握っている王様が統治をする。その時に、権力を持った人が何でも自分の思った通りに支配することができるということになるとやりたい放題。これは非常に危険な状態です。これでは国民の生活はちゃんと守れない。(図Ⅰ) |
法治主義 |
そこで、権力を持っている人が、何でも自分の思った通りにやるのではなく、必ずルールを作って、そのルールに基づいて統治をする。これが「法治主義」という考え方です。権力を持っている人がルールを無視して何かをやろうとしても、それはできない。必ずルールを通して統治をする。(図Ⅱ) これは、その前のルールがなかった時と比べると、法を通じてしか権力を行使できないから、ずいぶんマシです。 ただ、「このルールは、じゃあ誰が作るの?」ということです。結局このルールを作るのも、権力を持っている人が作るので、このルールが素晴らしい良いルールだったらいいのですけど、変なルールを作ったら結局同じことになるのですね。 よく、今の政治家でも「日本は法治国家だ」と言う場面があります。 確かに「法治国家」なのですが、「日本は法治国家だ」と発言した時の真意というのは「国民は法を守らなければならない」と、こういうニュアンスで使われることが多いです。結局は権力を持っている人がどんな法律を作るかによって、酷い法律を作れば、その酷い法律でも良いから「ともかく守れ」ということになってしまうので、「法治主義」という考え方だけでは、まだ人々の生活が安心できるものにならない。 |
法の支配・立憲主義 |
そこで、さらに、国民が安心して生活できるようにするためにということで生み出された、それが「法の支配と立憲主義」というものなのです。 これはどういうことかというと、国民がまず憲法を制定します。そして国家権力を持っている人、統治をする人というのは、この憲法の下にある。そして憲法の下で権力を行使して国民を統治する。もちろんこの間に法律が挟まるわけですけど。 さっきの「単なる法治主義」とこの「法の支配・立憲主義」とどこが違うかというと、「権力」の上に「憲法」があるのです。(図Ⅲ) 王様であっても憲法を守らなければいけないのです。王様が「こんなふうに税金を掛けたい」「こんなふうに新聞の発行を取り締まりたい」と思っても、憲法に適合しないやり方であれば、王様はそれをできないです。 「単なる法治主義」は「権力」が一番上にありましたから、権力を持っている人はどんな法律でも作れるのですけど、「立憲主義・法の支配」の下では、王様も憲法を守らなければいけないので、好き勝手できないのですね。 だから「法治主義」と「法の支配」というのは、似ているような言葉ですけど、意味がだいぶ違うのですね。 |
憲法は何のためにあるのか |
実は憲法は何のためにあるのかというと、権力を持っている人が好き勝手出来ないように監視する。権力を持っている人を縛る。そのために憲法があるのです。 みなさんは憲法をお読みになったことがあると思いますけど、憲法の規定の中心部分は、国民にどんな権利があるかということです。憲法には前文があって、第一章天皇の規定があって、第二章の九条があって、第三章「国民の権利及び義務」が四十条までずっと続くのです。 憲法の究極の目的は、国民にどんな人権があるのか、そしてその人権を保障するために、上手に権力をコントロールする。そのために憲法があるのです。 もちろん憲法の条文の中には、「国会というのはこういうふうに作りますよ」「参議院と衆議院がありますよ」とか、「裁判所とはこういうところですよ」「内閣というのはこういうところですよ」「内閣総理大臣はこうやって選びますよ」というルールを後ろの方に書いてあります。しかし、憲法の後ろの方に書いてある統治機構についてのルールは何のためにあるのかというと、権力を立法・行政・司法と三権分立して、お互いに牽制し合って権力が濫用されないようにするためです。国民の人権が不当に侵害されないように、そういう仕組みを作るためにあるのですね。 だから憲法のどこが大事かというと、「人権保障」。特に一三条以下は、国民にはどんな人権があるかということをまとめた「人権カタログ」になっているわけです。 結局憲法の規定は、特に人権保障の規定があって、その人権保障をするために国家権力をコントロールする。その結果、国民の人権が侵害されないようになる。こういう骨組みになっています。 もう一回おさらいをしますね。 最初悪い王様はやりたい放題です。 そこで新しい王様が出てきて、一応ルールを作って良い政治を始めたかなと思ったけれど、結局そのルールを作るのは王様なので、王様は悪い政治をやってしまうとやっぱりこれはコントロールできない。 そこで人々が、「私たちには持って生まれた人権があるのだ」と、「それを守るために憲法を作って、王様にその憲法を守らせる」というのが最後の形です。 やがて王様の時代から、選挙で選ばれた人が政治をやる時代になったわけですけど、それでもこの構造は変わっていないです。選挙で選ばれた人たち、日本であれば国会議員とか、内閣・大臣、そういう人たちも「憲法」を守らなければいけないです。「憲法」を守らせるようにわれわれは監視をしていかなければいけないわけです。) |
憲法には権利ばかりで義務がないという議論 |
「憲法を改正すべきだ」という人たちは「憲法には権利ばかり書いてあって、全然義務が書いていない」「権利には義務がついて回るのだ」ということをよく言います。 しかし、国家権力によって国民の基本的人権が侵害されることがないようにするために「憲法」があるのだから、「憲法」に権利ばかり書いてあるのは当たり前なのですね。 「日本国憲法」の中には「納税の義務」「勤労の義務」「教育を受けさせる義務」の三つ義務もあります。しかし、「教育」は「教育を受ける義務」ではないです。子どもたちに「教育を受けさせる義務」です。「勤労の義務」も「勤労の権利」もありますから、「権利と義務」の両方があります。権利中心に「憲法」が構成されるというのは当たり前のことです。 今年の一月、尖閣諸島北方海域で、中国の艦艇が日本の海上自衛隊の護衛艦に射撃用のレーダーを照射しました。射撃用のレーダーを当てるというのは、拳銃で狙いをつけるのと同じことです。これはとんでもない危険な行為であることは間違いないです。 そのことについて、TVの番組で自民党の片山さつき議員が「他の憲法上の制約のない国だったら、九条の一項、二項がなかったら、(自衛隊が)中国の艦艇を撃っていますよ」と言ったのです。そして「じゃあ撃てばよかったの?」というタレントの大竹まことさんの質問に「今の憲法の状況では、さすがに撃つわけにはいかない」と答えた。こういうやりとりがあったのですね。 要するに、もし憲法上の制約がなかったら撃っていた。逆に言うと、憲法があったから撃てなかった。ということは、憲法が機能しているということですよね。憲法九条の一項、二項があるから撃たないで済んだという話になるのですね。 「あれは撃つべきだった」と思っている人は、「憲法が邪魔だ」と思ったのかもしれませんけど、まさに、権力を持った人が思った通りに出来ないように縛るのが憲法ですから、そういう意味では役に立ったという場面です。 |