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二〇一三年度憲法問題学習会(3)

滋賀の生協 No.164(2013.12.20)
二〇一三年度憲法問題学習会
憲法は何のためにあるのか
~九六条問題と平和・人権~

2013年10月12日(土) コープしが生協会館生活文化ホール

講師 土井 裕明氏
(弁護士、滋賀弁護士九条の会代表、NPO法人消費者ネット・しが理事長)

   二〇一三年参議院選挙結果

 「この三分の二というのが多すぎるから、各議院の二分の一の賛成で憲法改正案を発議できるようにしよう」というのが、今回の一連の流れの元にあったわけですが、この「三分の二の賛成」というハードルにはどういう意味があるか。

  今年(2013年)の参議院の選挙結果で、選挙区の数字を拾ってみると、自民党に投票した人が半分弱なのに、三分の二の議席をとっているのです。

  小選挙区だとこうなることがあるわけです。実際には選挙区の議席と比例区の議席の両方ありますから、全体ではここまで極端なことはないですけど、国民の投票行動がそのまま議席数に反映されるわけではないということです。

  このように、選挙制度によって、必ずしも幅広い支持を得ていなくても、議席で半分ぐらいはとれてしまうのです。ところが三分の二となるとそう簡単にいかないので、そういう意味では三分の二の賛成がないと発議できないというのは、それなりの意味があるわけです。

   国民投票は万能ではない

 それから「国民投票があるから、発議だけはやりやすくしようよ」という意見もあります。ありますが、国民投票は万能ではないのですね。

  一つには、国民の意見というのは多種多様なのに、国民投票は「こういう改正に賛成か反対か」という、YESかNOしか問われません。「どういう発議をするかということを国民投票で選べないですね。例えば「憲法九条改正と、プライバシーという権利を憲法に明記する」という提案がセットで出された時に、両方YESかNOかと聞かれたら困りますよね。

  それから、国民投票法という法律ができて、「学校の先生は運動をやってはいけない」とか、国民投票運動にいろいろ制約があって、自由な投票運動ができません。

  また、発議から投票までの期間が短いです。国会で改正案が発議されて二か月後には投票ということがあり得るのです。国の将来を決めていく大事な決断を、二か月でYESかNOか答えを出せということになりかねません。

  それから、最低投票率の定めが今の国民投票法にないのです。例えば、二〇%の投票率で、過半数の人が「憲法改正に賛成だ」と言ったとしたら、全有権者の一割の賛成で憲法を変えられることになってしまうという問題もあります。

  だから国民投票さえOKだったら何をやっても良いというのは、乱暴な議論だと思います。

   憲法改正の限界

 「そもそも九六条の改正規定自体を改正することはできるのか」という議論があります。憲法学者や我々弁護士の中では「あの条文は改正できない条文である」という考え方が一般的です。

  例えば、今の憲法は国民主権の憲法ですが、これを国民投票で、戦前の憲法のように「天皇に主権がある」という人が半分以上いたら、そういう憲法改正をやっても良いものでしょうか。

  あるいは、今の憲法は「基本的人権の尊重」を一番の柱に掲げていますけど、基本的人権という考え方を廃止するような憲法改正というのは、国会の各議院の三分の二が賛成して発議して国民投票で半分が賛成したら、そういう憲法に変えてしまっても良いものでしょうか。

  それは許されないという考え方が、憲法学会では支配的です。
  諸外国の憲法を見ると、どんな憲法でも「改正規定」というものがあります。「この憲法を改正する時にはこういう手続きを踏んで改正しなければいけない」ということをどの憲法でも必ず書いていますが、尚且つ「この条文とこの条文とこの条文は、その手続きを踏んでも改正は認めない」と、憲法の中にはっきり書いてある憲法が普通にあります。

  日本の憲法は書いていませんけれど、ものの理屈から言って、「国民主権を天皇主権」に変えるとか、「基本的人権の尊重を廃止する」とか、そういう憲法改正は許されるはずがないです。憲法の中には、改正をしても良いものと、改正をしてはいけないものが含まれているということです。

   九六条を大幅に変更することは許されるのか

 じゃあ、九六条はどうなのか。憲法を制定した時に、国民はどんな改正を想定していたのか。

  例えば、衆議院の任期は四年、参議院の議員の任期は六年です。これを五年と八年に変えるということまで許さないとは憲法を作った人たちは考えていなかったでしょう。時代が変われば任期を変えなければならないことが出てくるかもしれない。それは多分許される改正でしょうね。

  それから時代が変われば人権の中身も豊富になって行きます。「プライバシーの権利」とか、「環境権」という権利を憲法に明文化することは、時代が変わればあり得る事で、憲法を作った人たちも「そういう改正は想定内」と思っていたでしょう。

  でも「国民主権を廃止する」とか「基本的人権の尊重という考え方を廃止する」という憲法改正まで許容していたとは、到底考えられないですね。

  じゃあ、九六条を大幅に変更することを、憲法を作った人たちは想定していただろうか。「三分の二の賛成で発議」という高いハードルを科すことで、憲法改正に賛成の人が反対の人を一所懸命説得する。たくさんの議論を積み重ねる。

その中でそういう改正が本当に良いのかどうかということを徹底的に議論して、その議論を通過した案だけが発議される。そういうことを九六条は想定していたわけで、「二分の一」だったらその時の勢いで通っちゃいますからね。そういうことは憲法がそもそも予定していなかったことだろうと考えられます。憲法学者のほとんどがそう言っていますし、弁護士もみんな「憲法九六条の根幹は改正できない」と考えています。

   憲法は時代遅れになっているか

 「諸外国の憲法は何度も改正されている」「戦後一度も憲法改正されていないのは日本だけだ」「日本の憲法はもう時代遅れだ」ということをよく言われます。じゃあ他の国の憲法改正とはどんな中身だったのかということです。

  アメリカの憲法は、憲法ができてから二百数十年経っていますけど、十数回の憲法改正が行われています。その改正の中には、「黒人奴隷制の廃止」とか「女性の参政権を認める」とかも含まれています。戦後だけで八回の改正がされていますが、戦後の改正はほとんど「大統領選挙制度の改正」です。日本では選挙制度は公職選挙法で決まっていますが、アメリカは憲法で決めていますから、都合が悪くなれば変えざるを得ない。アメリカの憲法改正はそういう改正なのです。

  他の国の改正も、例えば「女性に選挙権を与える」などの当然必要な改正です。日本は新しい憲法ができた時に、女性の参政権は認められていますから、憲法改正が要らなかったわけです。
  だから回数だけ取り出して「日本は遅れている」とか言う必要は全然ないのです。

  それから時代が変わると人権というものの考え方も変わるし、人権の中身の議論も豊富になってきます。「プライバシーの権利」「環境権」等の権利は基本的人権として保障されているという考え方が定着しています。じゃあそういう権利が認められるように憲法を改正するかというと、改正しても良いのでしょうけど、今の憲法十三条には「国民の幸福追求権」という条文はあり、ここで「プライバシーの権利」も「環境権」も保障されていると解釈すれば、わざわざ憲法で明文改正しなくても不都合はない。そういう議論もあります。

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