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消費政策の取組

第二七回滋賀県生協大会 「広がる貧困その再生をめざして」(2)

滋賀の生協 No.154(2010.12.10)
第二七回滋賀県生協大会
「広がる貧困その再生をめざして」

二〇一〇年一二月四日(土)滋賀県男女共同参画センターGーNETしが 大ホール

反貧困ネットワーク代表 宇都宮 健児弁護士

   サラ金三悪

「サラ金の問題」の大きな原因を、我々は「サラ金三悪」と言っています。

 一つは、百パーセントくらいの「高利」です。

 それから返済能力のない人に、返済能力を越えて貸し付ける「過剰融資」。私が相談を受けた中には、百八社から一億三千万円借りていたサラリーマンがいました。毎月の返済額が七百万円から八百万円になるんですね。で、返済できないから、新たな借り入れをする。「多重債務者」の多くは、返済が滞るとものすごい取立てを受けますから、他社からの借り入れを繰り返すわけです。そうすると借金も膨らむし借入件数も多くなり「過剰融資」が横行する。

 三つ目は「厳しい取立て」です。一九九九年に、商工ローンの大手の「日栄」の社員が「金払えなければ腎臓を売れ。肝臓売れ。目ん玉売れ」「目ん玉売ったら百万円ぐらいで売れる」という取立てをやりました。被害を受けた人が、私の事務所に取立てのテープを持ってきたので、警視庁に「恐喝未遂罪」で告発をして、その社員を逮捕させたことがあるんですけど、一九八三年に「サラ金規制法」「貸金業規制法」ができた後も、当事者には厳しい取立てがなされていました。

 我々は「高利」「過剰融資」「厳しい取立て」を規制する立法運動をやって、二〇〇六年に「グレーゾーン金利」を撤廃させた。「年収の三分の一を超えた貸付は禁止する」と「総量規制」が導入された。「取立て規制」は「貸金業規制法」が導入された時から強化されている。こうして、二〇〇六年の法改正で「三悪」には、ほぼ網をかぶせることができました。

   貧困問題に取り組む

 ただ、こういう「高利」に頼らざるを得ない元々の原因は「低所得・生活苦」なんですね。「サラ金三悪」をいくら規制しても根本的な解決にはなっていないんです。

 日本弁護士連合会の「消費者問題対策委員会」が、定期的に行なっている「破産記録調査」によると、「借金の理由」は、「生活苦・低所得」「病気・医療費」「失業・転職」「給料の減少」「負債の返済」が大半なんですね。それから、「破産申立者の月収分布」をみますと、二十万円未満が八割ちかくを占めています。つまり、「貧困を原因とする借り入れ」なんです。

 「自己破産の申し立て」をして「免責決定」を受けると、一旦借金から解放されます。しかし、五年から七年間「信用情報機関」に登録されるので、「サラ金やクレジットの利用」「銀行からの融資」は受けられなくなります。「破産」して「借金」がなくなっても、病気がすぐ直ったり、失業者の仕事がすぐに見つかったりはしない。だから、相変わらず生活は苦しい。そういう人を、今度は、千パーセントから一万パーセントの超高金利の「ヤミ金融業者」が狙う。ですから、「貧困の問題」は「貸金業法の改正」によって、解決されるわけではないんです。

 三十年間「サラ金・クレジット・多重債務問題」と取り組んできた弁護士や司法書士、被害者団体は、徐々に「貧困問題に取り組まなければいけない」という問題意識を持ってくるわけです。

 警察庁の統計では、一九九八年から自殺者は三万人台になっています。「経済生活苦」の自殺者は七千人から八千人に上っています。この中に「多重債務」とか「借金苦」を原因とする自殺者もたくさん含まれています。「自殺」までいかなくても「借金」や「業者の取立て」を苦に「夜逃げ」をする人が、今十万人いるんじゃないかと言われています。

 我々は、こういう問題にも取り組まなければいけないと考えました。富士山麓の青木ヶ原樹海は自殺の名所で有名ですが、二〇〇七年、そこに「借金の問題は必ず解決できます」という「自殺防止の看板」を設置する運動をやっています。この看板や報道を見て、かかってきた電話は、二〇一〇年九月現在、一万五千三九九件です。実際に「死のう」と樹海に入り、看板を見て電話をかけてきた人が九七人いました。

 それから「夜逃げ」をする人は、「取立て」を苦にして逃げるわけですから、居場所がわからないようにするため、住民票を移動しないで逃げています。だから、仕事を見つけるのが大変で、当然ながら正社員として就職は難しい。そうすると、パート、アルバイト、日雇いなどの「不安定就労」を余儀なくされる。また、住民票がないから国民健康保険に入りにくくなる。病気やけがをしても、治療費は全額自己負担になるので我慢をして「医療難民」になるんですね。そういう中から、ネットカフェで寝泊まりする人や、路上生活を余儀なくされる人も出てくるわけです。

   「反貧困ネットワーク」を結成

 これまで「多重債務問題」を取り組んできた弁護士や司法書士は、ボランティアグループの「路上生活者への炊き出し」に合わせて「無料法律相談」を始めるんです。私も五、六年前から参加して、そこで湯浅誠さんに出会うことになります。

 私たちは、新宿中央公園や隅田川公園などで「路上生活者の無料法律相談」をやっていました。湯浅さんは「NPO法人もやい」で「野宿者支援」をやっていたんですね。そこで「広がる貧困の問題をもっと社会的にアピールして、貧困問題の解決を求める運動が必要ではないか」と考えるようになりまして、二〇〇七年十月一日に「反貧困ネットワーク」を結成するんです。

 結成当時はまだ、メディアが「貧困問題」を取り上げられることは少なかったですね。「格差」はかなり報道されていました。小泉さんは「格差があってなんで悪いんだ。努力している人が報われるのは当たり前だ」という答弁をしていました。確かに「格差」だけを純粋に考えると、裕福な人がもっと裕福になれば、国民生活が底上げされても「格差」は広がる。しかし、「貧困」は人間らしい生活ができない状態のことですから、「貧困が広がることは良くない」と政治家も認めざるを得ないわけです。

 そこで、「広がる貧困を可視化して、政治的・社会的な解決を求めていこう」と結成したのが「反貧困ネットワーク」です。「反貧困ネットワーク」には、ホームレスを支援する団体、障害者を支援する団体、シングルマザーを支援する団体、DVの被害者や外国人労働者や非正規労働者や多重債務者と、それを支援する団体などが集まっています。この小さな団体が共通して抱えている問題は「貧困」です。それをネットワークでつながることで、「声を上げていこう」とつくった組織です。

   「年越し派遣村」の取り組み

 「貧困を可視化させる運動」で一番成功したのは、二〇〇八年暮れから二〇〇九年初めにかけての「年越し派遣村」の取り組みだと思います。日比谷公園の中にテント村をつくって、「派遣切り」で野宿を余儀なくされた労働者の支援をやりました。

 二〇〇八年秋に「リーマンショック」が起こり、企業が次々と「派遣切り」をしました。「派遣切り」をされた労働者の中には、職を失うだけではなく、住まいも失って野宿を余儀なくされる人がたくさん出てきたわけです。

 そういう「派遣切りの問題点」を改善するために、一二月四日に、労働組合が集まって「労働者派遣法の抜本的な改正を求める集会」を日比谷野外音楽堂で開催し、国会までの請願デモも行いました。呼び掛け人になった私も参加しました。

 集会が終わった後、実行委員会で「派遣切りされた労働者の中に、野宿を余儀なくされている人がたくさん出ている。そういう人たちは、年末年始は役所が閉まりますので年を越せない人が出てくる可能性がある」「そういう人たちに対して、労働者派遣法改正を求める労働組合は何もしなくても良いのか」という議論が起こるわけです。「年越し派遣村」の取り組みは、この議論の中から「日比谷公園の中でテント村をつくって炊き出しをやろう」と始めた運動です。

 「年越し派遣村」を始めると連日マスコミで報道され、五百五人の方が入村されるんですね。多くは「派遣切り」された労働者で、手持ちの所持金は数百円しか持っていない。中には「玉ねぎ一個で公園の水道の水を飲んで三日間生活している」という人もいました。展望を失って自殺を図ったけど、死に切れないで保護され、警察官付添いのもとに入村された人もいました。さらに、「そういう人たちを支援しよう」と、全国から千六百九十二人のボランティアの方も集まってきたんですね。

 それまで公園とかで野宿をしていた時には、マスコミも関心を示さなかった。それが「霞が関の目の前に五百人近くの野宿を余儀なくされた人が集まった」となれば、日本社会に広がっている「貧困」が目に見える形になるわけです。これ以後「日本に広がっている貧困」が報道されるようになります。現在「反貧困ネットワーク」は、滋賀にも結成されているようですけど、二十都道府県以上で結成されています。

 「貧困問題」に取り組む様々な運動体も、次々と結成されます。二〇〇七年には四月に「首都圏生活保護支援法律家ネットワーク」が、六月三日には「生活保護問題対策全国会議」がそれぞれ結成されます。二〇〇八年になると四月一六日に「人間らしい労働と生活を求める連絡会議(生活底上げ会議)」の結成。二〇〇九年には、一一月二二日に「非正規労働者の権利実現全国会議」の結成。二〇一〇年四月からは、「日本弁護士連合会貧困問題対策本部」が設置され、「貧困」の問題に取り組む団体がいろいろな形で生み出されてきました。

   アメリカに次ぐ貧困大国

 「サラ金問題」や「多重債務問題」に取り組んできた私たちは、「貧困が広がっている」ことを体験的に感じていたんですが、資料や統計をみると、改めて「経済大国と言われた日本が、貧困大国でもある」ということが明らかになってきています。

 OECD発表の「相対的貧困率の国際比較」では、日本は先進国でアメリカに次いで、「貧困率」が高い国になっています。二〇〇九年政権交代が行われ、日本政府が初めて「日本の貧困率は一五・七パーセント」と発表しました。これは国民の六人に一人が貧困状態にあるということです。「子どもの貧困率」は一四・二パーセント。日本の子どもの七人に一人が貧困状態にあります。「一人親家庭の貧困率」は五四・三パーセント。OECD加盟三〇カ国の中で最悪な状態になっています。

 実は「貧困率を調査して発表するべきだ」と提案したのは「反貧困ネットワーク」なんです。私たちは二〇〇九年八月の衆議院選挙の前に「貧困をなくすためのマニフェスト」をつくり、「教育」「医療」「住宅」「労働」「社会保障」など、さまざまな分野で百項目近くの政策提言をしています。そして、各党の代表に来てもらって見解を問う集会をやったんですね。その時に民主党を代表して来られたのが、今の首相の菅さんでした。

 そのマニフェストのトップに要求したのが「貧困率を調査して貧困率の削減目標を立てるべきだ」ということでした。

 提案の理由は「貧困と向き合うべきだ」ということです。欧米、特にヨーロッパのほとんどの国が「貧困率」を調査し、「貧困の削減目標」を立てている国も多いんです。ところが日本の政府は「貧困」を調査したことがほとんどない。それまで政府は「貧困はない」と言ってきました。しかし、我々の「多重債務問題の現場」や、湯浅さんの「野宿者支援の現場」では、「貧困」がドンドン広がっている。我々は、現場の実態が政治に反映されていないと感じていたので、まず「貧困と向き合うためには、貧困の実態調査、貧困率の調査をやることからスタートすべきだ」と提案しました。

 提案の理由のもう一つは、「社会の豊かさの指標は、GNPだけではない」ということです。

 実は二〇〇八年の「リーマンショック」まで、日本は史上最長の好景気が続いていました。企業は非常に利益を上げていた。特にトヨタ自動車なんかは、GMを抜いて世界一の自動車会社になり、史上最高の利益を上げていたんです。

 ところが国民はほとんど実感がなかった。なぜかというと、一九九〇年代以降「労働分配率」が落ちていっているんですね。つまり利益が労働者に還元できないような状態になっていたので、むしろその間に、「派遣労働者」をはじめとする「非正規社員」がどんどん増えて、年収二百万円未満の「ワーキングプア」が千万人を超えるという「貧困化」がすすんでいったんです。

 日本の政治は「GNPを上げることが、ひいては国民の生活を豊かにしていく」という考え方のもとに「いかに経済成長を遂げていくか」が、最大の政策目標になっていた。

 だから、社会の豊かさの指標は、GNPだけではない。もう一つの指標を持つべきではないか。それが、我々が提案した「貧困率」なんです。ちゃんと調査して「貧困率」を削減していくことが、健全な社会の社会指標になるのではないか。

 民主党政権になって初めて「貧困率の調査」が行われました。しかし、もう一つの「何年後には貧困率を何パーセントに下げる。そのために雇用とか社会保障とかについてどういう目標を立てて、政策を提案するのか」という提起が、今のところまだなされていないということです。


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