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安心して住める「福島」を取り戻すために(1)

滋賀の生協 No.161(2012.12.25)
滋賀県生協連役職員研修
安心して住める「福島」を取り戻すために
~つながろうCOOPアクション・福島原発事故から見えてきたもの~

2012年9月15日 コープしが生協会館生文ホール

講師 熊谷 純一氏(福島県生活協同組合連合会会長理事)



 福島第一原子力発電所の事故からの一年半という時間は、何を意味するのか。国土とくらしと人の心に残した傷跡の全容ははかり知れないものがあり、残されている課題も膨大です。同時に明らかになりつつある真実、荒廃の中から立ち上がる新たな息吹も力強いものがあります。熊谷福島県生活協同組合連合会会長理事に現在進行形の情報を語っていただきました。

   原発事故から一年半

  私ども見通しがつかない中で、心が折れそうになる経験を何回もしています。しかし、全国の皆さんに支えられ、福島に来ていただければ意外と元気な顔をお見せできるかと思います。

 まだ十六万人が自宅に帰れないまま、仮設住宅、借り上げ住宅、あるいは自分でアパートを見つけて仮住まいをしています。

 自治体は「避難解除」をしたところもありますが、放射能を取り除く「除染」も遅れており、スーパーマーケットや床屋さんといったインフラもありません。「帰るに帰れない」というのが実態です。

 例えば飯館村の七〇%は森です。その森を除染しない限り、いくら自宅を除染しても、二、三か月経つとまた汚染されます。ゼネコンが洗っていくのですが、二回目は経費が掛かります。まだまだ「住める」という状況には至っていません。

 それどころか、例えば、スーパーマーケットの駐車場の側溝を測ると、何万ベクレルというホットスポットが見つかります。

 県は、太陽光発電で放射線量を表示するモニターを設置しています。しかしこのモニターは、高さ一メートル、新しい土を敷いてコンクリートで打ちますので、線量値は低く表示されるわけです。ですから、市民からも不信感を持たれていて、「飯館村のモニターなら一・六倍」とか、「駅前のモニターなら一・三倍」という換算をしています。

   安心して住める福島を取り戻す活動

 今、県内の生協では「絆で復興!!ふくしまSTYLE」が合言葉となっています。

 「ふくしまSTYLE」というのは県内産産直のブランド名でしたが、これが原発事故でほとんど無くなりました。ですから、この「絆で復興!!ふくしまSTYLE」という合言葉には、「人と人が助け合って、本当に安全な福島の本当の生活を、もう一度取り戻そう」という願いが込められているのです。

 まず「原子力災害が県民に与えた影響」「放射能汚染の現状」そして「復旧・復興について」ご報告をしたいと思います。それから、こういう状況の中で、福島県生協連がどのように考えて、どのように実践したのかということも報告したいと思います。

 特に福島県生協連が重視しましたのは、「協同組合間の協同」、それから福島大学との「知の協同」です。事故以来福島県には、東京大学、京都大学、広島大学、長崎大学等、たくさんの大学が調査に来られました。しかし、そのデータは各大学が持ち帰ってしまう。また、大学同士が競争し合ってデータの奪い合いになる。そんな事情もあって、私どもとしては地元の福島大学との協同を強めております。

 二〇一〇年四月に設立した、「福島大学協同組合ネットワーク研究所」は福島大学・生協・農協・漁協・森林組合による協同の組織で、事業、運動に関する研究組織です。地産地消と協同組合間協同のビジネス・モデルという課題を与えられていますが、三・一一以降、復興と地域再生にも深く関わり、チェルノブイリ視察もこの枠で行いました。福大にある「うつくしまふくしま未来支援センター」とも様々な分野で協同をしております。

   数字で見る大震災

 地震の規模は九.〇M(国内観測史上最大)。津波の高さは三八.九m (国内観測史上最大)。浸水面積は五六一平方km(JR山手線内側の九倍)。農・畜産・水産業の被害は一兆八千億円超。

 放射性物質放出量が、昨年三月だけで九十万テラベクレル。これは二〇一二年五月に発表された東電の試算です。チェルノブイリ原発事故の推定放出量五二〇万テラベクレルの六分の一に相当します。

 死者数一六〇五人。行方不明者数二一四人。県内避難者数約十万人。県外避難者数 六万八百七十八人(二〇一二.八.二現在)。

 住宅、建物被害三十六万六百一棟。これは、一部損壊も含めております。仮設住宅が三万二千七百五人・一万四千三百十一戸。借り上げ住宅は六万千十八人・二万四千九百六十七戸。雇用促進住宅等が五千三百五十六人・千五百六十八戸。

 閉鎖事業所は三〇km範囲で四千八百事業所。約六万人の労働者が失業しました。

   重大事故の避難行動

 実際に原発事故が起きた場合、車で逃げるのは不可能です。でも、長い、長い行列で、西に向かって逃げました。そのうちガソ リンがなくなる。電気がない。電話が通じない。三月一一日は雪が降っていました。しかも津波が後ろから来るわけです。そして逃げている最中に被曝するわけです。

 重大事故が起きた場合の避難をどうするか。放射性物質が風で飛んできますから、とにかく落ち着くまで、一週間ぐらい近くの大きなシェルターに逃げ込む体制を作るしかないのではないかというのが、現段階での私たちの結論です。

   三・一一当時の原発事故

 三月一一日。
 一四時四六分 地震が発生。福島第一原発の一号機から三号機が自動停止。原発は一号機から六号機までありますが、四号機は休んでいました。
 一六時三六分 政府が「官邸対策室」を設置。
 一九時 「緊急事態宣言」発令。
 二〇時五〇分 福島県が「半径二キロ圏内の住民に避難指示」を出します。
 二一時二三分 政府から「半径三キロ圏内の避難指示」がでます。既に逃げていた住民は、半径三キロになったことを車のラジオで知ります。二キロで留まっていた住民は「もっと遠くへ行きなさい」と言われる。同時に、三~一〇キロの住民には「屋内退避指示」。「外へ出るな。風が入ってこないように目張りをしなさい」という指示が出ます。

 三月一二日。
 三時 枝野官房長官(当時)が「半径三キロ避難に変更なし」と表明。
 五時四四分 政府は「半径一〇キロ圏内避難」と、いきなりと発表。これで三回目の避難を強いられた住民もいます。
 六時 政府から大熊町に、「町民丸ごと町外移動」という電話連絡が入ります。「町民丸ごと町外移動」は、原発周辺自治体の訓練マニュアルにはない「想定外」の指示です。
 九時一五分 一号機で格納容器の蒸気を放出して圧力を下げる「ベント作業」開始。しかし、うまくいかなくて、一四時頃に炉心溶融がすでに起きていました。
 一四時 大熊町の避難終了。国土交通省が手配したバスで、自主避難を除く八千人の避難が終了します。
 一五時三六分 一号機原子炉建屋で水素爆発。五人が負傷。
 一六時 葛尾村で千六百人が避難準備を開始。
 一八時二六分 政府が「半径二十キロ圏内の避難指示」。しかし、国や県からの連絡はなく、テレビを見て知るわけです。国や県から「どこへどう逃げたらいいか」の指示はなく、南相馬市の例では「とにかく逃げてください」と広報車が絶叫しました。

 三月一三日。
 放射能の流れを予測するSPEEDIのデータが県に届くのですが、なぜか公表はされず、これが悲劇につながります。
 一〇時一〇分 三号機の圧力容器がすでに破損。

 三月一四日。
 一一時一分 三号機が爆発。
 一九時五五分 二号機が空焚き状態になる。圧力容器全体が爆発するのではないかと、従業員は死を覚悟したが、圧力弁の近くが壊れて爆発しなかったですね。
 この三号機爆発の時、葛尾村の千六百人は当日避難が終了していました。非常に危なかったと思っています。

 三月一五日。
 六時四分 止まっていた四号機の原子炉建屋で爆発。
 九時三八分 火災。この時の放射能の量は非常に多かったということです。
 一一時 政府から「二〇~三〇キロ圏内に屋内退避要請」。この時も自治体に国からの連絡はなく、自治体は不信感を募らせます。
 南相馬市では大手運送会社が物資輸送を拒んでいました。そこに「屋内退避」のため、一万人の避難者の暖房、食料が翌一六日には底をつくことになりました。

 三月二〇日。
 二三時 飯館村に「明日の七時から水道水摂取制限」が出されました。この村は原発から二八~四七キロ。南相馬市より千三百人の被災者を受け入れていました。しかし、連絡する方法がなく、夜の一一時に「水道の水を飲むな」と広報車等で連絡しただけです。

 三月二三日。
 二十一時 SPEEDIの試算データを公表します。そのデータによると、浪江町の津島地区では、住民を逃がした場所が「一番危ない地域」でした。SPEEDIの試算データが早く公表されていれば、余計な被曝をしなくてもよかったわけです。

 五月一五日。
 一八時三〇分 「一号機のメルトダウンは、地震発生一六時間後の三月一二日六時五〇分ごろ」と発表。地震発生後一日半で、すでにメルトダウンしていたわけです。しかしその時刻、テレビは「メルトダウンは決してない」「日本の技術はそんな低いものではありません」という学者の解説を流していました。

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