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IYC記念滋賀県協同組合協議会学習会講演録

IYC記念滋賀県協同組合協議会学習会

協同組合とは何か~その役割と使命、期待されるもの~

2023年2月24日(金) 滋賀県農業教育センター4階第4研修室&オンライン

講師:小林元氏(JCA主任研究員・基礎研究部長)

主催:IYC記念滋賀県協同組合協議会

 協同組合・協同組合運動(協同組合原則)とは何か。現在の社会情勢下における協同組合のアイデンティティの見直し。協同組合の役割と使命や期待されているものは何か。IYC記念滋賀県協同組合協議会学習会が開催され、46人(うちオンライン28人)が参加しました。

  小林 元(こばやし はじめ)氏プロフィール 広島大学大学院生物圏科学研究科博士課程後期修了・博士(農学)・広島大学大学院統合生命科学研究科、助教などを経て現職。専門は食文化と歴史、協同組合・集落営農。日本協同組合学会、日本農業市場学会に所属。論文として「分極化する組合員の意見を反映する組織運営(体制)」2020年「農業と経済」、「中間組織体『地域農業組織』の組織改革に関する理論的検討」2020年『農業経営研究』 他

■そもそも"協同組合"ってなに?

  ご紹介いただきましたJCA(日本協同組合連携機構)の小林と申します。 日本協同組合連携機構は、JA、生協、漁協、森林組合、協同金融、共済生協、中小企業協同組合をはじめとする、日本の協同組合と連携し、横のつながりを広げていこうということでつくられた組織です。 私はそこで主にJAの仕事をやっておりますけれども、自分の指導教官が協同組合の、特に生活協同組合の専門家でありまして、学生時代から協同組合に関わらせていただいております。 早速ですが「そもそも"協同組合"ってなに?」というお話です。 ICA声明では「協同組合は、人びとの自治的な組織であり、自発的に手を結んだ人びとが、共同で所有し民主的に管理する事業体をつうじて、共通の経済的、社会的、文化的なニーズと願いをかなえることを目的とする。(A co-operative is an autonomous association of persons united voluntarily to meet their common economic, social, and cultural needs and aspirations through a jointly-owned and democratically controlled enterprise.)と「定義」されています。 私は、大学などで「協同組合論」の講義をやると、100人いようが、200人いようが、10人であろうが、始まって10分以内に寝かせる自信があります。なんで寝てしまうか。普段使わない言葉が入っていて「ようわからん」という話なんですね。 今日は協同組合で実際に働かれているみなさんがたくさんいらっしゃいますが、例えば、中学校2、3年生に、自分の言葉で協同組合を説明できますか?これ結構難しいんです。例えば「我々は、出資・利用・参加の三位一体で...」と言った瞬間にお子さんは全く関心をなくす。 そうしたことを考える上で、先ほどの「定義」を、英語と合わせてどこがポイントかを見てみます。 最初に大切なのは、an autonomous association of persons。autonomousとは「自治」。自分たちで何かを行うという意味です。Associationは「組織」です。そしてof personsですから、「人々の自治的な組織なんだよ。みなさんの組織なんだよ」ということが大事です。  次がunited voluntarily「自発的に手を結ぶ」。「組合員が主人公となり関係をつくる」ことが大事です。  そして三つめがthrough a jointly-owned and democratically controlled enterprise「共同で所有し民主的に管理する事業体」。through a jointly-owned「自ら所有をしている」。and democratically controlled「民主的に管理する」。そして、enterprise「事業体」というのがキーワードになります。

■ちょっと待って"協同"って何?

 みなさん気が付いていましたか?この「定義」には「協同」という字が入っていないんです。  「きょうどう」って辞書を引くと、最初に「共同」が出てくる。その他に、今は「協働」という字が結構流行っていますね。例えば、行政と何かの組織が手を結んで何かをやる時「協働」という字を使ったりします。「共同」「協働」「協同」の違いって説明できますか?  三省堂の国語辞典第6版によると、「共同」は、二人以上の人がいっしょに・する(使う)こと。共同浴場とか、共同墓地という使われ方をします。「協同」は、力をあわせること。「協働」は、同じ目的のために、力をあわせて働くこと。英語では、partnershipという言葉がよく使われます。

■そのルーツから協同組合を考える  

 今日は、私なりの協同組合の解釈を紹介します。ここからがみなさんと一緒に考える本番です。  私は小、中学生に「協同組合は、同じ課題、同じ願いを持つ人々が集まり、事業を通じて課題を解決、願いを叶える組織です。そして、顔が見える関係をつくることがポイントです」と説明します。 例えば、「協同金融」という仕組みがあります。JAグループでは「信用事業」と呼びます。 ルーツは大正時代、明治時代までさかのぼります。当時、農民は銀行に口座を持つことができなかった。名主さん、庄屋さんなど、一定以上の税金を納められる財力のある人だけが参政権を持っていました。だから参政権が「信用の証し」だったのです。明治、大正時代、普段は自給的な生活で済みましたが、冠婚葬祭、教育資金など、お金が必要な時もあります。その時は、口座がないので銀行から借りることができない。だからと言って高利貸しから借りると「おしんの世界」になる。だから、みんなでお金をちょっとずつプールして、必要な人が必要な時に、必要なだけ借りられる仕組みをつくりました。なぜ借りることができるのか。村人全員、顔が見える関係だったからです。ちなみにJAグループの信用事業では、「預金」ではなく「貯金」と言います。みんなでお金を出し合ってプールしている(貯めている)からです。また、「お金の事業」を「信用事業」と言います。顔がわかる関係が「信用の証し」だからです。  要するに、同じ課題を持っている人たちが、顔が見える関係で、お互いに助け合える。協同組合にはこういった一つのルーツがあります。  たまに、JAグループや生協の共済担当でも「保険」と「共済」の違いがわからない方がいます。実際同じ保険業法で位置づけられていますから、「同じ」と言っても、あながち間違いではないのですが。  「保険」はギャンブルなんです。ある一定の時期までに、私が癌になることができたら私の勝ち。なることができなければ保険会社の勝ち。英ロイズという、今世界で最大の保険のアンダーライター(個人の保険引受会員)の組織があります。ロイズはもともと、ロンドンのコーヒー・ハウスだったんです。大航海時代、船主とか荷主がそこに集まって、船が帰ってくるか帰ってこないかなどを含めて情報交換をしながら、リスクテイク(一か八かの取引)を行っていた。そういったところから保険は始まりました。  「共済」のルーツはたくさんあります。私がいつも紹介するのは、江戸時代の長屋の話です。「火事と喧嘩は江戸の花」と言うように、江戸では30年ぐらいに1回、今の23区の一つの区が焼けてしまう火事があり、70年ぐらいに1回、江戸まるごと焼けてしまう大火事があった。その時代に、長屋の人たちは、お米やお酒、お金などを、みんなでプールしていた。長屋の全てのパーツの木材をプールして、一日、二日で建て直せた。このように準備をして、いざという時に助け合った。「共済」は「共に助け合う」という相互扶助の考えなのです。 保険と共催との大きな違いは「ギャンブルなのか、相互扶助なのか」もっと言えば、「主人公は誰なのか」ということです。「協同組合の主人公は、顔が見える関係をもった、同じ課題を持つ人々だよ」。こういったお話です。共同購買や販売共同も同じです。 協同組合というものは組合員のものであり、その組合員同士の同じ課題や同じ願いを持った人々が集まって、組合員が自ら事業を通じて課題を解決し、願いを叶える組織だということです。こういった原点を改めて知ってほしいなと思います。 協同が「力をあわせること」だとすると、そのためには"同じ課題や同じ願いを共有するプロセス=コミュニケーション"と、 "集まる場=コミュニティ"が必要です。協同組合で一番大切なのは、こうした顔が見える関係をどうやって作っていくのか、取り戻していくのかではないかと思っています。

■教会やパブ・バルから始まる関係

 こういった考え方はどこから生まれてきたのか。協同組合のルーツを考えながら、ヨーロッパを見てみたいと思います。 アイルランドの首都ダブリンにテンプルバーという地域があります。その真ん中に「ザ・テンプルバー」という「バー」があります。アイルランド人も、イギリス人も、フランス人も、大体ヨーロッパに行きますと、各町とか村の単位でこうした「バー」があります。スペイン人は「バル」に行くのですけど...そんな行きつけの「バー」とか「パブ」を誰もが持っていて、仕事終わりとか、ご飯を食べた後に1杯か2杯ひっかけに来る。そういった一種の「パブリックスペース」になっています。

■教会やパブ・バルから始まる協同

 「パブリックスペース」は、例えば若者向けの「ディスコ」とか「クラブ」、高齢者や退役軍人が集まる「ホール」と呼ばれるとこもあります。また、日本と違って多民族社会で「多様性社会」と言われますが、現実には民族ごとの「コロニー」に、民族ごとに集まる集会所がどこの都市にもあります。 こういった「パブリックスペース」を、「サードプレイス(third place)」と言います。私たちの居場所は、まず「家」という家族の共同体、「ファーストプイス(first place)」。次に「学校・職場」という普段の生活の中で関係をつくっていく場所、「セカンドプレイス(second place)」。そして日本では一般的とは言えませんが、「バル」や「パブ」、「サードプレイス」と言われるものがあります。 尤も、キリスト教圏において、大きなサードプレイスは「教会」です。ヨーロッパには「教区」という教会に集まる単位があります。一応「日曜日には教会に行くものだ」ということがローカルな社会の中では、一般常識になっています。クリスチャンだけではなく、イスラム教徒も金曜日には必ず集まる「金曜礼拝」の場所があります。

■みんなのもの="民主主義"

 このサードプレイスで、どんな話がされているか。  ここ10年、アイルランドとかイギリスで面白い協同組合が生まれています。サッカーのサポータークラブの協同組合です。アイルランドにICOS (アイルランド協同組合連合会)というナショナルセンターがあり、協同組合設立のお手伝いをしていて、そこに、教区とかパブ単位のサッカーファンクラブを協同組合にしたいという動きが出ています。 ヨーロッパやアメリカでは、外でべろんべろんに酔っぱらうのはもはや罪なんです。パブなどでお酒を飲んでも結構はっきりと会話ができるし、テレビでサッカー観戦もする。「自分たちが応援しているサッカークラブを優勝させたい」という同じ願いを持つ人たちが「応援ユニフォームを揃えよう」「サポータークラブをつくろう」と、こうしたサードプレイスでのおしゃべりから課題を共有して、協同組合が結構すんなりとつくられています。だからまずおしゃべりをする"場"が大事です。  世界のトップクラスのサッカークラブ「FCバルセロナ」は、「ソシオ(仲間)」という組織がクラブオーナーです。一人一票制で協同組合的な性格を強く持っています。日本語版ホームページには「FCバルセロナは、ソシオがオーナーであることを基盤としたスポーツクラブです。この条件を満たすための義務と責任において、クラブを率いる人々は、民主主義に基づいて選ばれる必要があります。この一つをとっても、FCバルセロナは、民主的なやり方による運営が継続している欧州のビッグクラブであることがわかります」(出典:https://www.fcbarcelona.jp/ja/club/members)と書かれています。  正式に「ソシオは協同組合」と言うには、スペインの協同組合法に基づいても無理がありますが、ヨーロッパにおける協同組合は、人々の暮らしの中において当たり前の存在なんです。そこでのキーワードは「みんなのもの」。みんなのものだからみんなで決めるという民主主義が息づいています。  今までの話を整理しましょう。 協同組合というものは、同じ課題や同じ願いをもっている人々が集まって、おしゃべりをするところから始まる。ということは、人々が集まる場所が大事だし、そこで顔が見える関係をつくっていくことが、大事。そして、そこでのゴールは、「みんなのもの」という考え方。 逆の考え方が会社です。「みんなのもの」ではなく「俺のもの」。「俺が儲けたいから会社をつくる」。協同組合と株式会社の一番の違いは、「みんなのもの」というところではないかなと思います。

■協同組合はコミュニティから始まる

  もう少し協同組合ができるプロセスを勉強したいと思います。 1950年から60年ころ、神奈川県に平塚市民生協ができました。集団就職などで、京浜工業地帯に出てこられた日本中の若者が結婚して、ベッドタウンに移って行った時代です。 平塚は当時多分東京まで2時間ぐらいかかったんじゃないでしょうか。そんなへき地にまでたくさんのベッドタウンができて、みんなが一気に県営住宅、市営住宅などに入ってくる。しかし、出身地が違いますから会話もないですし、会社も違うから「ファーストプイス=家」だけになってしまいます。 そんな若い夫婦に、地域の中でみんなと仲良くなる機会ができます。赤ちゃんが生まれる。若いお母さんが、赤ちゃんを連れて散歩に出ます。そうして赤ちゃんを連れたお母さんたちが集まる場所が、自然とできてきます。今のママ友のようなものです。 当時のお母さんたちの共通の課題は「安全・安心」でした。「森永ヒ素ミルク事件」「カネミ油症事件」、最も大きな課題となったのは「せっけんを使うと、赤ちゃんの柔らかい手が手荒れを起こしてしまう」ことでした。あまり顔見知りでないお母さんたちの共通の話題は、困っていること。「ミルク危ないという話を聞いたけど、安全な牛乳を飲ませたい」「うちの子は手荒れがひどくて」... テレビもまだ十分に普及していなかった時代です。せいぜいラジオぐらい。「どこに安全で安心な牛乳とか石けんって売られているんやろう」図書館へ行ったり、市役所へ行ったり、農協へ行ったりして勉強をするんです。そしたら茨城県のある農協が安全・安心な牛乳を売ってくれるらしいということを知るんです。どないしたと思います? 週に二回、当番を決めて二人一組で40リットルのミルクポットを抱えて、東海道線に乗り、常磐線に乗り換えて、片道5時間かけて牛乳を買いに行った。そして、5時間かけて戻ってきて、住宅の前で牛乳を分け合いお金を払う。そしてそのお金をもって、次の当番の人たちがまた牛乳を買いに行く。これって、生協がやっている共同購買そのものですよね。共同購入ってこのように進んでいったのです。 ところが、参加者が増えてきたら、40リットルのミルクポット一つでは足りなくなる。でも、若いお母さんたちは、当時免許もないですし車もない。どうしたか。「じゃあ、みんなでお金を出し合って、トラックを買いましょう」「みんなでお金を出し合って、運転手さんを雇いましょう」「人数が増えてお金の計算が大変になってきたから、事務のパートさん雇おう」「専門家を雇うんだから、法人組織をつくろう」...そうやってできたのが、一つの市民生協であります。 一つの協同組合の形というものは、組合員のみなさんが、おしゃべりを通じて、顔見知りになって、課題を共有する。そして自ら解決をするために働く。ところが大きくなって限界が出てくるから、専門家を雇用する。雇用するために協同組合を組織する。組合員のこうした課題を解決し願いを叶えるための事業を、専門家としてサポートする。それが今日お集りの協同組合役職員の仕事だと、私は思っています。 「生産部会」も一緒ですね。もともとは産地商人などに買いたたかれて、自分がつくったミカンがいくらで売っているのか知らなかった。ところがある時、市場へ行く機会があったら自分が10円で売ったミカンが100円で売られていた。「なんや90円も損していた。それやったら自分で売ろう」 「自分で売るんやったら1人では大変やから、みんなで組織をつくって、同じ段ボールを使って売りに行こう」「他の産地に負けないように、みんなで同じ銘柄にして、同じマークにして、より品質の高いものにしよう」と言ってできてきたのが「生産部会」です。 みんなで出荷をするから集出荷場をつくる。お金がかかります。集出荷場で段ボールにミカンを詰める時期は、畑でミカンを収穫する時期と重なって、農家にとっては大変。「じゃあ、集出荷場を充実させ管理する人やそこで働く人を雇おう」と言ってできたのが、昔の「専門農協」です。 このように協同組合って、人びとのおしゃべり、コミュニティから始まって、取り組み自体が高度化していく中で、専門家を雇用して組織がつくられるという特徴を持っているんですね。

■しかし協同組合は協同から遠ざかる

  ところが、協同組合というものは、その次に問題があります。 一つの協同組合だけでの売買はコストがかかります。「規模の経済」という言葉がありますが、経済というものは大きなロットになるほどコスト削減が可能となります。そこで協同組合は、例えばJAグループで言えば全農(昔の経済連)、生活協同組合であれば、供給品の仕入れを全国一括で行えば量が集まり、その分コストを下げることができる。「連合組織化」です。さらに、昔は注文書を集めて、手で計算をしていたわけですが、OCRなどの「システム化」で便利になってきました。 しかし、「連合組織化」や「システム化」は、私たちの仕事をより専門化します。専門化は、組合員との距離を遠ざけます。また、組合員が共に汗を流す場も小さくなります。 例えば、生活協同組合は、「班」という仕組みの中で共同購買を行って来ました。団地単位で集まって、お母さんたちが毎月当番を決めて、注文書の取りまとめ、お金の清算などがありました。生協のトラックが運んできてくれるソーセージも組合員一人ずつ分けられているわけではなく、その班で頼んだ分が一つの袋にまとめて入っていて、「私何本よ」「私何グラムよ」とその場で仕分けをする。言ってみれば、共同購入の班というのは、組合員自らの協同労働の場だったんです。  しかし、社会が変わってきてお母さんたちが、家から社会に出て活躍するようになった。共同購買というのは難しくなる。班という仕組みは難しくなる。むしろ組合員のニーズとしては、留守でも配達してもらえることが大事。ということで「個配」に変わってきました。そうなると、組合員もサービスを買う感覚で生協を利用し、スーパーを選択するのとあまり変わらなくなる。 農協で言えば、信用事業、共済事業などの金融事業では、普段からのおつきあいがなくなって、「こっちの銀行の方が安い」「あっちのメーカーの方が良い」ということになって、自分のものであった協同組合が、選択する対象となり、お客さんになってしまう。  職員も、組合員にサービスをしようとするあまり、お客様扱いするようになる。 「運動と事業の矛盾」「運動と事業の分離」と言われたりもしますが、自分たちの願いや課題をかなえるためにつくった協同組合が、大きくなればなるほど、便利になればなるほど、組合員を顧客化し、「自分たちのものと」いう意識が遠ざかる。そして協同組合の性格が薄くなってしまう。これは協同組合の一つの運動モデルで、発展して時間がたつほど必ずそうなるということが歴史的にわかってきました。

■北欧などで進む協同組合の企業化

  そのような傾向が行きつくとこまで行けばどうなるか。北欧の話をします。  これは私が実際に調査をしました。15年ぐらいでそれぞれ2,3回ずつ行っています。  フィンランドの酪農連合会「Valio (ヴァリオ)」。スウェーデン・デンマークの酪農協同組合「Arla(アルラ)」。フィンランド・スウェーデンの一部・デンマークまで含めた豚肉の連合会「Hkscan(HKスキャン)」。デンマークの世界有数の肉の協同組合「DANISH CROWN(ダニッシュクラウン)」。アイルランド西部の酪農協同組合連合会「KERRY(ケリー)」。アイルランド南東部の巨大な乳業メーカー「glanbia(グランビア)」。 これらの共通点は、酪農の専門農協の連合会組織です。傘下には、地域ごとに小さな集乳協同組合や、屠畜場協同組合などがあります。しかし、実態としては、協同組合機能はほとんど残っていません。例えばヴァリオだと、フィンランドの酪農家に、ロボットの搾乳機やミルクタンクを導入し、毎日タンクローリーがミルクを回収する仕組みです  これらの連合組織がどんな商売をしているか。例えばヴァリオは、ロシアのウクライナ侵攻があるまでは、主にバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)をはじめとして、ポーランド、ロシア向けの乳製品販売に力を入れていました。アルラは、スウェーデンとデンマーク中心に、東欧から中欧の国境を越えて牛乳、乳製品を売っています。ケリーは日本にも支社があり、グランビアは主に中国です。乳製品をはじめ、様々な栄養食品を世界中に売っています。  今、酪農協同組合や畜産協同組合は、世界中で競争が激化しています。もはや組合員の出資金だけでは設備投資や開発が追い付かない。スウェーデンもフィンランドもアイルランドも、競争力強化の資金確保のために組合員以外、つまり株式市場から資金調達ができるようにしました。 その結果、何が起こるか?私の指導教官である田中秀樹先生は「そもそも協同組合は、組合員、地域の人々の願い、特にくらしの課題からはじまって、協同労働、生協であれば班での仕分けや集金という具体的なco-operationが存在した。農協においても、みんなで共同をする過程、例えば集出荷場をみんなでつくり、みんなで箱詰めをするとか、そういう過程があった。しかし、事業が発展して経済機能、競争力が高まると、最終的には完全にenterprise(資本化)の方向へ向かってしまう。」(田中秀樹「地域づくりと協同組合」大月書店2008年)と整理しています。 「組合員の顧客化と連合化・システム化が協同組合を協同組合たらしめなくなった」ということです。

■教育と活動の重視

  だから、私たち協同組合は、「教育・活動」を重視します。 協同組合は根っからの性格として、発展すれば発展するほど、協同組合の一番大切だった、「集まる場」とか、「組合員同士」とか、「みんなのもの」というものを失ってしまう。 だから、ICA第5原則「教育、研修・広報」に「協同組合は、組合員、選出された役員、マネジャー、職員がその発展に効果的に貢献できるように、教育と研修を実施する。協同組合は、一般の人びと、特に若い人びとやオピニオンリーダーに、協同することの本質と利点を知らせる」と書かれています。 「協同組合とは何か」を常に学んでいないと、私たちは、日々の仕事の中でその「本来の強み」とか、「成り立ち」を忘れてしまうということです。 協同組合ってすごく不便な組織だと感じていませんか? 協同組合は、法律で「対象とする人」が制限されている。組合員でなければだめ。株式会社なら売るものがあって、買ってくれるのなら、犬でも猫でも客は誰でもいいんです。 協同組合は、法律上「やっていい事業」が決められている。株式会社は金になりさえすれば、法律に違反しない限り、なんでもできる。 協同組合は、基本的には「一定の地理的範囲」から出ることができない。株式会社は、買ってくれる人がいたら、月でも木星でもどこでもできる。 協同組合は、「組合員が意思決定する」から時間がかかる。「一年に一回の総代会を待たなければならない」とか、「何回も理事会で議論し、組合員の了解をいただいて、次の一歩を踏み出す」。出店、閉店も組合員と話をしなければいけない。株式会社は、株主に委託された経営者が、臨機応変に経営判断できる。「赤字だから」という理由だけで、閉店することもできます。 協同組合は、競争上不利な組織です。それなのに、「なぜ協同組合をやっているのか」が、今問われています。連合会組織化して、システム化して、組合員を顧客化して、その結果組合離れになっているのなら、協同組合やめて株式会社になった方がいいじゃないですか。 しかし、私たちは協同組合を選択し続ける。なぜ選択し続けるのかということを、学び考え続ける。言ってみればこれはずっと解決する問題ではなく、私たちは教育とか活動を通じて最初の原点に戻り、「協同することの本質とか、利点をしらせる」(ICA第5原則)ことを続けなければならない。そうしなければ協同組合ではなくなるということを、原則の一つにおいているということなのかもしれません。

■社会・環境を学ぶ大切さ

  しかし私は「協同組合とは何か」という教育以上に、今私たちを取り巻く環境とか社会を学ぶことの方が、協同組合として大切なのではないかと思っています。 ここ数日、敷島製パンの「超熟のPasco」という、食用コウロギの粉を入れ込んだパンが、ツイッター上で炎上しています。「なんでコオロギを入れるのか」「コオロギを入れるようなパン屋のパンは食べない」「Pascoの不買運動」、さらに「コオロギはボツリヌス菌を持っている」と書いている人までいる。 2017年、フィンランドが食用昆虫の販売を解禁しました。調査で訪れていた私も、コオロギをパンに練り込んだ昆虫食を食べてみましたが、「おいしいか」と聞かれれば普通のパンです。 なぜ世界中で「コオロギを食べる」という議論になっているか。私たちが肉、特に牛を食べる。そうすると本来人間がエネルギー源とすべき穀物を牛が消費し、結果的に世界の飢餓人口が8億を超える。また、牛のゲップが地球温暖化に拍車をかける。そこで昆虫に目を付けたというだけの話です。にもかかわらず、今日本では一部の人たちが、ツイッター上で不買運動を起こすまでになっている。  もちろん議論は大切です。しかし、今の風潮は「コオロギは食べ物ではない」「食べ物に入れるのはアウト」という短絡的な関連付けで、何も学ばす、環境を知ることもなく、生理的に反応しているだけです。 「よりよい社会を作りたい」と言って、28人の労働者が新しい仕組みを作った「ロッチデール先駆者協同組合」の教育も、協同組合教育というよりは、人々が知らないことを知ってもらう、学んでもらうということを重視しました。  重化学工業が発展し、様々な産業が勃興した1800年代中盤のリバプールの平均寿命は14歳です。なぜ14歳なのか。エンクロージャー(第2次囲い込み)が起き、農村部を追われ都市部に出てきた労働者たちの子弟は、都市で生まれ、学ぶ機会もなく過酷な労働を強いられた。小麦も知らない。だから、小麦粉の半分が石灰で水増しされていたのにわからない。算数を教わっていない。足し算ができないから、一年分の掛け売りで、商人にぼったくられても気が付かない。 だから、ロッチデールで大切にしたのは、「本物」を教えること、算数を教えること。こういう「社会・環境を知る」ということは、協同組合にとって重要なことだと思います。

■活動を重視する

  もう一つ、教育とともに大事なのは「活動」です。 平塚市民生協の成り立ちの話をしましたが、出発点は「おしゃべりをする場」でした。そして、そのおしゃべりをぴょんと飛び越えて、共通の利害や課題を解決する取り組みが生まれました。「森永ヒ素ミルクあれはあかんわ」「おたく、ミルクどこで買うてる?」今の時代ならインターネットで調べられますが、当時はなかった。だから、みんなで勉強するという主体性を発揮できたのかもしれないですね。 今一番怖いのは、集まる場をつくっても、インターネットの世界で検索だけして、そこで終わってしまったり、アマゾンに頼んで買ってしまったりする。「おしゃべり」が「学び」になっていないし、「自分で考える」ことにもつながっていない。「自分ごと」になっていないんですね。 さらに言うと、コロナウィルス感染症の拡大の中で、私たちが勉強したことの一つは、いろんなサービスの向こう側に汗を流してくれている人たち「エッセンシャルワーク」がいるということです。「アマゾンが安い」そりゃそうですよ。途中で運送業者の人たちに負担を押しつけているんですもの。私たちの便利な世の中というのは、こうしたエッセンシャルワーカーに支えられている。そういった労働の過程も見えなくなっています。その理由は、「知らないから」「学ばないから」と一緒で、私たちが「実際に経験したことがない」「自分たちが体を動かすことがない」からです。全部お金で解決してきた。 もう一回「自分ごと」にするためには、協同組合は改めて、学ぶこと、実際に体を動かしたり、体験したりすることに目を向けなければならないのかなと思っています。

■協同労働の中で学び進化する

  愛媛県の内子町は、松山から南西の山手に入ったところにある「小京都」の一つです。三椏(ミツマタ)、楮(コウゾ)で有名です。観光地ではありますが、農村地帯です。 そこに農家のお嫁さんで野田文子さんという方がいらっしゃいます。自給的に野菜をつくられていた。すると、都市部に住まわれている野田さんのお友達が「これ売ってよ」と言ったんです。まさか自分が作った自家用の野菜が売れるとは思っていなかった。「なんや、都市部の人は欲しがっているんや」ということを学んだんですね。 それで、周りのお母さんに声をかけ、農産物直売所つくった。1980年代後半、常設の直売所なんてほとんどなかった。茨城や千葉の先行した直売所に勉強に行き、「からり」という直売所を開設します。 お母さんたち自らが運営し、レジ番も交代でやった。お客さんがものすごく来るんです。 マーケティング戦略で言うと、入ってすぐの平台のフェイスが重要な「ものが売れる」スペースです。「からり」でもこのフェイスが取り合いになります。「朝の入荷は7時半からです」と言うているのに、6時、7時に来て並びだす。そしてそれが過熱して5時半とかになる。 また、産地商人や卸の人が早朝から買い付けに来るようになる。「120円で売ろうと思っていたけど、今やったら100円で、その代わり現金で」こういったことが起きて、「これじゃあだめだ」ということで、お母さんたちはみんなで話し合って、運営ルールを決めた。 さらには、レジ打ちをしているとお客さんにいろいろ聞かれます。「これ使ってみたいけど、体験できるの?」「レシピ教えて?」「こんなお弁当食べたいんやけど」...そこからヒントを得て、加工を始めたり、体験事業も始める。 農産物直売所をつくる。棚を取り合う。街のお母さんたちと交流をしながら話を聞いて、様々な改善を行う。この汗を流す過程って、協同労働=相互承認のプロセスです。喧嘩しながら、いろんなコンヒュージョンも起きますが、顔見知りで、同じ立場、同じ願い、同じ課題を持った人たちだから、互いに認め合って、話し合いをすることができる。そして「みんなのもの」で、民主的な運営をつくっていく。 協同組合に大切なものは、人と人との顔の見える関係であり、その場であり、そして、それをどうやって促していくかということなのかなと思います。

■明日食べる飯

 一年に一回ぐらい、こういうIYC記念とかでみなさんに学んでいただきたいですし、現場でもいろんな議論をしていただきたいのですが、正直仕事が忙しい。こんな議論をしていられない時もあります。  私に協同組合を教えてくれた、広島生協連元会長の岡村さんは「協同組合人というのは、今日食べる飯と明日食べる飯、どっちを選ぶかと言ったら、明日食べる飯を選ぶ」と言われます。  私たちはどうしても、今日食べる飯のことが目の前にあります。それは絶対必要なことですし、そこを見失うと、協同組合で働く人間を路頭に迷わせますから、夢ばかり語っていてはいけないとは思います。ただし、「協同組合であるということを忘れないために、我々は何をするのか」を常に考えること。その柱となるのが「協同組合のアイデンティティ」だと思っています。

■アイデンティティの議論

  私は「アイデンティティとは"鏡"や"ものさし"です」とお話しています。  "鏡"とか"ものさし"は、普段はあまり使われませんが、「自分が何か」ということを気付くためには必ず必要なもの。だから私たち協同組合の陣営は、アイデンティティという難しいものをわざわざ作りました。このアイデンティティというものがなくなってしまうと、糸の切れた凧になって、同業他社との競争の中で、どこかへ行っちゃって、いつの間にか被害者になってしまうんです。  現場では株式会社と変わらないところがたくさんあります。組合員のことを「お客さん」「うちの会員様」と呼んだ職員さんを見聞きしたこともあります。協同組合はその仕組み上、発達すればするほど、組合員を顧客化して遠ざけてしまう。 現在ICAの陣営では「このアイデンティティというものをちゃんと議論しよう」と呼び掛けています。我々が立ち返る場所はどこなのかを確認し、協同組合を選び続ける理由を常に見つめなおすことは、大切なことではないでしょうか。

■協同組合は"歴史の子"

 その時代によって課題は変わってきます。ICAソウル大会は「環境の変化」を指摘しています。 考えてみたら、1960年代だから「安心で安全な牛乳」「安心で安全な赤ちゃんが手荒れしない石けん」という話なんですよね。じゃあ、今の便利になった時代ではどうなのか。 「技術革新・デジタル化」。どんどん社会は便利になる。我々の事業自体も変化しているが、組合員の願いや課題も変化しています。実際、JAの役職員、生協の役職員でも、普段の自分の生活では、アマゾンとか楽天とか使っているのとちがいますか。 「格差の拡大」。日本では格差が見えにくくなっている。協同組合を相手にしている組合員は、基本的に資産を持っている方です。私は昔、各生協の系統に応じて年収層を調べたことがありますが、生協組合員の年収の階層は、ちょっと高めです。農協の組合員も、ローンをご利用いただけるとか、車が買えるとか、家を建てることができるとか、農地を持っているとか、資産を持っている人たちなんです。その組合員の向こう側で、子ども食堂など、本当に貧困で苦しんでいる人たちの割合は増えています。私たちは、本当に困っている人たちの課題から遠ざかっているのではないかと危惧をしています。 「協同組合は"歴史の子"」です。"環境・社会"が変化している中で、くらしが変化し、人々の課題や願いも変化します。先ほどもお話しした通り、「今の社会の課題ってなんだろう」とか「環境って何だろうか」ということを真摯に学ぶ。特に連合会の方々は、単協のみなさんと一緒になって学ぶために、リードできるように、もっともっと学ばなければいけないと思っています。

■協同組合の価値と7つの原則

「協同組合の価値」ってみなさんご存じでしょうか。 「価値:協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、連帯の価値を基礎とする。協同組合の創設者たちの伝統を受け継ぎ、協同組合の組合員は、正直、公開、社会的責任、他人への配慮という倫理的価値を信条とする。」 私、正直言いますと「協同組合の価値」というのは、教条主義だし、あまりにもハードルが高いと思っています。ただ、これって逆にいいんですよね。「自分のやっていることってホンマにこの価値に合っているんやろうか」と常に見返す。現実にはそこに外れることはたくさんあるのですが、これが一里塚になることによって見直すことができる。「ああどうしようかな?」という一歩になっていく。 最期に、「協同組合の価値と7つの原則」第7原則の話をさせていただきます。第1原則から第7原則まである中で、私があまり好きではない第7原則「コミュニティへの関与」です。 「地域社会に貢献しなければいけない」ということをこの第7原則から言う人が何人かいらっしゃいます。でも、協同組合というのは、組合員の願いや課題を自ら解決する組織であって、「共益」が最初にくるはずです。その波及効果として「公益」になるのはわかりますが、組合員同士でさえ協同が生まれていないのに、わざわざ「コミュニティへの関与」が先に来るのは、一般企業のCSR(企業の社会的責任:Corporate Social Responsibility)など、形だけのものがあふれている中で、あまり好きではない。 そもそも日本では、コミュニティの持続的発展のための活動も含めて、「地域社会にどう貢献するか」というような訳をされているのですけど、個人的には違うんじゃないかなと思っています。

■"ムラ"と"地域"(コミュニティ)

 今日前半に「パブ」「教区」の話をしました。ああいった「サードプレイス」が本来のコミュニティの在り方なんですけど、日本にいると、ここに"ムラ"というものも入ってきます。 地域ってなんだ?本来の地域って、領土があるものではなく、願いとか課題を共有する人々が集まる範囲ぐらいもので、それぞれの願いや課題によって地域の範囲が異なるはずですよね。 ところが日本には、それ以上に強い"ムラ"という、共同で管理する領土に住んでいる人たちがいるんです。"ムラ"の仕組みって「"イエ"同士の相互扶助と縛り(相互監視)の関係」と私は言っています。"ムラ"の話になると「相互扶助の助け合いは大切や」と言われます。確かに助け合いがあります。しかし、それは"イエ"同士の相互扶助ですし、縛りの関係の方が強い。そうしたところに本当に協同って生まれるでしょうか。 地域社会にどのように関わっていけばいいのか。「おしゃべりができる場」をつくり、「おしゃべり」から「課題を共有」し、同じ共通する願いとか課題ために「グループ」ができ、「協同」の関係へ。それは「サッカーのサポータークラブ」だっていいし、「野球のファンクラブ」でも良い。 「買い物難民」の方々で集まって「どうしようか」って話せる場所をつくる。「子育て」で困っている人たちで気楽におしゃべりができる場をつくる。そういうのがコミュニティであって、行政とか、町内会とか、市町村とか、いわゆる「領土をもった地域や"ムラ"」とは違うんじゃないですかね。 今、協同組合が「地域づくりに関与します」とか言っていますが、格好つけのように見えて、それってやらなければいけないことなのでしょうか。協同組合って同じ願いや課題を持つ組合員同士のものでしょう。ここはアイデンティティの議論とか含めて、改めて考えてほしいなあと思います。

■変化する地域・ムラをどう考える?

  去年の年末、ある住民が「町内会費は払いたくない。でもゴミ収集所は使わせろ」。町内会の会長からしたら「金も払っていないのに使わせるか」。それで裁判になった。どっちが勝ったと思います?「自治会には入りたくないけど、ゴミ収集所は使いたい」と言った人が勝ちました。「ゴミの収集は公共的なサービスであるから、そこを使えなくするという恣意的な行為はできない」という判決です。 今は、町内会費を払わないとか、PTAは自己判断で入るべきだと考える人の方が多いそうです。世代によって地域とか、"ムラ"とか、コミュニティに対する考え方がすごく異なっているんです。 何よりも私たちの社会が便利になり、さらにコロナウィルス感染症とIT社会が加わって、人と人のつながりや助け合いが本当に見えにくくなってきた。 協同組合として、これから地域、"ムラ"、コミュニティ、人との関係って「どうやって考えたらいいんだろうか」ということを、改めてしっかりと議論をするべきではないだろうかと思っています。

■欧州とアジアの大きな違い

 アジアは基本的に"ムラ"が強く、"ムラ"とコミュニティがバラバラなんです。それに対して欧米、南米は、"ムラ"は"ムラ"で縛りも一定ありますが、その外部にいろんな人が自由に集まれるコミュニティがある。おしゃべりをして顔見知りになり、多様なコミュニティが生まれて、みんなのものである「協同組合」が生まれる。  日本は、生協以外は官製の協同組合で、もともと体制に包摂されています。生協も体制には包摂されていないけど、市場には包摂されています。そこで、どうやって自立して自由なコミュニティをつくっていくのか。 いずれにしろ、我々協同組合として、人と人との関わりやコミュニティについて、もう一度議論する。今が、そのいいチャンスではないかと思っています。 ご清聴ありがとうございました。